ドラマーの義父が教えてくれた音楽
――高校生の時に、急に他の男性がお父さんになったわけですね。
MARIA 年頃じゃないですか。洗濯物を見られるのもマジ嫌、みたいな。向こうは向こうで言い方とか気をつかってたと思うんですけど、私のブラが落ちてたことがあって、「おーい、乳バンド落ちてんぞ」って言われて。こっちは「乳バンドじゃねえよ、きしょいな」みたいな。
マジ無理と思ってたんですけど、その人はバンドマンで、ドラマーだったんですよ。で、私が聴いている音楽とかも横でちょいちょい聴いてて、ある日、「たぶんこういうの好きだと思うよ」と渡してくれたのが、ブーツィー・コリンズ(※ジェームス・ブラウンのバックバンドも務めた、ファンクの代表的なアーティスト)のCDだったんです。
ブーツィー・コリンズが来日した時に一緒にツアーを回ったりしてたらしいんです。で、その曲を聴いた時、いわゆる酒とか薬物でハイになる人っていますけど、そういうものを体験したことのない自分が、まさにハイになるような音楽だったんですよね。そこから、「コイツちょっといいやつかも」と、義父への意識が変わっていったんです。
――MARIAさんの音楽のルーツに義理のお父さんが関わっていたんですね。
MARIA それから音楽の話をたくさんするようになって。「これ今ハマってるんだ」ってヒップホップのCDを聴かせると、「この曲の元ネタはアシッドジャズだよ」とかって教えてくれて。
――当時、周りにヒップホップを聴いている人はいたんですか。
MARIA 通ってた日本の高校ではほぼゼロでしたね。ただ、中学まで住んでいた基地の中では、スーパーのBGMとか、子どもたちがラジカセで流す曲がヒップホップだったんです。
当時はDr.DreとかDMXとかアリーヤとかが流行ってて、「ヤバ、黒人の音楽つよっ」ってなって。自分は白人とのハーフなんで、「アメリカで白人なめられてんじゃね?」とかって思いながら聴いてました。
BUDDHA BRANDを聴いてラッパーの道へ
――ラッパーを目指したきっかけは?
MARIA ラップをやろうと思わせてくれたのはBUDDHA BRANDのNIPPSさんですね。それまで日本語ラップって耳触りがちょっとダサいな、って思ってたんですよ。
でも、BUDDHA BRANDを聴いて、バイリンガルラップっていうんですかね。英語と日本語の混ぜ方とか、「飛葉飛火って何!?」と思って、すぐTSUTAYAでCD借りてリリック読んでぶっ飛びました。
初めてNIPPSさんに会った時もその話をしたかな、と思うんですけど、NIPPSさんいつもわりとフニャフニャなんで(笑)、「お~、MARIA。ありがとね」みたいな感じで、あんまり熱い展開にはならないんですけど(笑)。
――ステージデビューは18歳だったそうですね。
MARIA 初めてクラブに行った時に声をかけてくれた人が私のデモを聞いて、主催するイベントに呼んでくれたんです。でも、私はかなりあがり症で、全然思ったようなパフォーマンスができなくて。それで一回ラップを辞めてアラスカに行ったんです。
写真=杉山秀樹/文藝春秋