パリ10区に建つアパルトマンの、植物がいきいきと生い茂るベランダで、老夫婦が愉しそうにワインを飲んでいる。オープニングで映し出されたこの理想的な老後の光景が一転、認知症に侵されていく元精神科医の妻と、心臓に持病を抱える映画評論家の夫の日々が描かれる。ギャスパー・ノエ監督による新作『VORTEX ヴォルテックス』は、自身の体験を基に制作された。

「10年前、母がアルツハイマー(型認知症)になり、脳が壊れていく様子を目撃しました。実体験して初めて、老後を生きていくことには非常に複雑で困難な問題が伴うことを知りました。その母を亡くし、新型コロナウイルスでもたくさんの人が亡くなっていきました。これらの経験で変化した自分の人生観が、この映画には投影されていると思います」

ギャスパー・ノエ監督 ©Philippe Quaisse-Unifrance

“渦”を意味するタイトルが、その人生観を象徴する。

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「人生というものは、一度渦に巻き込まれたら抗うことができず、死という奈落の底に落ちていくしかありません。ハリケーンは上昇していく渦ですが、ヴォルテックスは下降していく渦なのです」

 映画のスタイルも激変した。過去作では暴力や快楽をテーマに、過激な音と映像で観客を刺激したが、本作はドキュメンタリーのように人物を淡々と追いかける。画面を2つに分割し、2人を同時進行で映し出した理由は、夫婦の相容れなさと、孤独を表現するためだという。

「今までは若い人向けに、娯楽的要素の強い作品を作ってきましたが、今回はすべての観客に向けて、よりシリアスな映画を作りたかったのです。多くの人が経験している、または今後、経験していくであろう普遍的なシチュエーションで。それゆえに本作は、私のフィルモグラフィーにおいて『最もつらい作品』と言われています。私の父も、『これが最も暴力的だ』と。母との体験が反映されているので、父が一番苦労していたときの記憶が蘇ってしまうからでしょう。アルツハイマーは、病状が進むとおかしな行動が増えていきます。私の母も、来客のバッグを自分のものだと思い込んで中をかき回しました。家の中で無くなるものも増えました――」

 劇中では、夫が新著のために執筆中の原稿を、妻がトイレに流すシーンが衝撃的だ。

「この映画の観客は、夫が20年間も浮気をしていることを知っています。妻はそれをはっきりとは知りませんが、本能的に感づいている。その鬱憤を晴らすために、夫が大事にしているものをトイレに捨てたのだと思います」

© 2021 RECTANGLE PRODUCTIONS - GOODFELLAS - LES CINEMAS DE LA ZONE - KNM - ARTEMIS PRODUCTIONS - SRAB FILMS - LES FILMS VELVET - KALLOUCHE CINEMA

 本作の裏の主役といえる存在が、夫婦が暮らすアパルトマンだ。映画関係の本やVHSが溢れる夫の書斎をはじめ、彼らの人生の痕跡が、層のように積み重なっている。

「老夫婦の顔にも人生や生活が滲み出ていますが、それをセットでも表現しようと思いました。本作の中で、一番残酷なシーンは夫婦の死ではなく、彼らの死後、徐々に部屋が空っぽになっていく映像です。持ち主がいなくなり、中にあったものがすべて処分されていく。母の場合もそうでしたが、遺品は他の人にとって、ほとんど役に立たないのです」

 ノエ監督の新境地となった本作は、これまで彼の作品を全否定してきた評論家からも、好意的に受け入れられている。

「敵が味方になってくれました。私の映画のファンは20代前半の人が多いので、今回の反応が気になりましたが、ホラー映画の巨匠であるダリオ・アルジェントが夫役を演じてくれたことで、若いホラーファンが興味を持って見てくれました。もちろん、日本では事情が違うと思いますが、ぜひ大人の方に、見て、泣いてほしいです。観客の方たち全員に泣いてもらえたら成功、泣いてもらえなかったら失敗と判断します(笑)」

Gaspar Noé/1963年12月27日、アルゼンチン・ブエノスアイレス生まれ。13歳の時にフランスに移住。パリのルイ・リュミエールで映画を学び、85年に映画監督デビュー。代表作に『アレックス』(02)、『CLIMAX クライマックス』(18)など。苛烈な暴力シーンや過激な性描写で、しばしば賛否両論を引き起こしている。

INFORMATION

映画『VORTEX ヴォルテックス』(12月8日公開)
https://synca.jp/vortex-movie/