英和女学校は登校生徒二百余名。遠方の者は寄宿して教えを受けているのも多い。先月29日から1週間の春休みで、いずれもわが家に帰り、後には外国人教師と使用人らだけが残っていた。
教師の中にも休み中、普段の疲れを癒そうと箱根の温泉に行った者もあった。ラージ氏も夫人とともに参加しており、土曜日の5日に帰京する予定だったが、東海道の汽車が今回の演習帰りで一般乗客の乗車を制限するため、混雑を避けようと4日夜帰京した。普段寝起きしている校長室に入り、旅の疲れで居間の戸締まりも忘れて寝入ったらしい。
同校の構造は堅固な西洋建築で、内部の四方に廊下を巡らし、3人の使用人が毎晩2人ずつ宿直。交代で警戒する決まりで、当夜は当番の喜平が午前0時に一回りして居間に帰ってきた時に賊2人が現れた。
同(ラージ)氏は北米カナダの生まれで、日本に来て5年。生徒に対しては極めて懇切丁寧で、日本人青年子弟で氏の恩を受けた者も少なくない。同校では3日間休校とし、あす(7日)、学校内で葬儀を執行。埋葬するという。
郵便報知は「喜平」と表記しているが、以後「喜兵衛」で統一する。当時、明治天皇、皇后が出席した陸軍の大演習が名古屋であり、その帰途で現在の東海道線が混雑していたようだ。この年は7月に第1回衆議院選挙が行われ、10月に教育勅語発布。11月には大日本帝国憲法が施行されて国会が開会した。一方で、足尾銅山からの鉱毒被害が問題になり始めていた。日本が天皇制近代国家としての体裁を整える裏側で矛盾も顔をのぞかせていた。
事件現場に落ちていたタバコ入れ
同じ4月6日付で注目すべきは読売の記事の末尾。「(賊が)逃げ去った後には『かますタバコ入れ』が1個落ちており、中にはナタ形のキセルと鉛筆が入っていたというが、どんな素性の大悪人であろうか。遠からず天網にかかるに相違ないだろう」。
「かますタバコ入れ」とは、むしろを袋状にして穀物や石炭などをいれた「かます(叺)」の形をしたタバコ入れのこと。「ナタ形」は「ナタマメ(鉈豆)形」の誤りで、なたまめのさやに似た太く短い金属製のキセル。4月8日付東朝は「この品は車夫などの持つべき粗末な物ではない」と、差別的な表現で高級品であることを示した。なめし革を使った「印伝」で、このタバコ入れが事件解明の大きな鍵となる。
7日付の郵便報知は被害者に関して第一報よりさらに詳しく書いており、恨みを買うとすれば妻の方だろうという見方をしている。
ラージ氏が日本に渡ってきたのは明治19(1886)年ごろで、生国カナダのビクトリア大学で技芸得業生(バチェラー・オブ・アーツ)=学士=になったのは、日本に来る少し前。来日後は今日まで神学得業士(バチェラー・オブ・ヂヴィニチー)の受験勉強中だった。
夫人も同じくカナダ生まれだが、結婚は来日して間もなくで、同氏が校長になった時だという。宗教家とあって性質は温厚勉励で親切心が深い一方、快活な方で、人から恨みを受けるはずはないだろうという。賊は金銭目的だろうが、強いて私怨とすれば、夫人の性質が最も規律正しいこと。もし不正行為をする者があれば少しも見逃さず、厳しく進退を処置するため、生徒や使用人らで放逐された者が間々あり、これらから「放逐した者に生きる道を与えなければ身のためにならない」というような脅しめいた手紙が送られたことがたびたびあった。ただ、最近のことではない。