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 さらに記事は言う。

警察も記者も知らなかった?

 夫人は非常に沈着剛毅な人で、(事件の時)物音を聞きつけて走ってきた教師、寄宿生その他が狼狽しているのを、自分も夫を助けようとして重傷を負いながら屈する色もなく「静かに静かに」と制し、おもむろに警察への届けや医師を迎えに行かせる手続きを抜かりなく言いつけた。現場付近は人家も集中しているが、近所の人は一人も異変を知らなかった。

 

 夫人もメソジスト教徒でラージ氏より前に来日したが、先年病気にかかった時、友人知人は皆帰国を勧めたが、同意せず、「日本で志した事業が成功しないうちは死んでもこの地を去りはしない」と語った。その後、ラージ氏と結婚した。

 この郵便報知も含めて各紙は、被害者夫妻と東洋英和学校、東洋英和女学校の表記や関係などで誤りが非常に多い。ラージ氏は実際は宣教師で、男子のみの東洋英和学校の教師だったが、同校や東洋英和女学校の校長と誤った新聞もある。当時はほとんどの日本人が海外に関する知識が乏しく、キリスト教系のミッションスクールのことなど、警察も記者もデスクも知らなかったに違いない。

当時の東洋英和女学校の教職員と生徒(『東洋英和女学院百年史』より)

 事件関係の資料もほぼ同様だ。1934年に刊行された『東洋英和女学校五十年史』と1984年の『東洋英和女学院百年史』から学校の経緯を確認しよう。

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「事務的才能に優れていた」イライザ

 カナダのメソジスト教会伝道局は1873(明治6)年、創立50周年事業として外国伝道の開始を決議。ジョージ・コクラン、デビッドソン・マクドナルドの宣教師2人を日本に送った。2人は東京、横浜、静岡で布教伝道活動に従事。日本人信徒を増やした。

 1882(明治15)年、新たに女性宣教師マーサ・カートメルが来日。布教を続けるうち、学校設立の必要が叫ばれるようになった。東京・麻布に土地を購入。1884(明治17)年、東洋英和学校と東洋英和女学校が前後して隣接地に設立された。イライザ・スペンサーはオンタリオ州パリス出身。トロントの市立高等中学校を卒業後、教職に就いていたが1885(明治18)年2月、2人目の女性宣教師として来日した。東洋英和女学校では家事・英語・唱歌を担当。その年の秋には病弱のカートメルの後を継いで2代目校長に。「特に事務的才能に優れていた」(『百年史』)とも、「極めて行政的才能に長じ」(『五十年史』)ていたともいわれる。1887(明治20)年7月、ラージと結婚したが、依然校長の職に留まっていた。

 ラージの葬儀は4月7日午後3時、麻布教会堂で営まれた。東洋英和学校、東洋英和女学校の両校の生徒、教師ら700~800人が参列したと8日付の各紙にある。やまと新聞にはちょっと気になる短信が。「田中警視総監(※土佐藩出身でのちに宮内大臣などを務める田中光顕)は昨日午前、各警察署長を召集し、協議を遂げた。たぶん麻布鳥居坂町の殺傷事件に関することだろうという」。