赤羽秘書官とは会津藩出身の外務官僚・赤羽四郎、箕作次官はのちに貴族院議員となる法学者・箕作麟祥だ。当時は第一次山縣有朋内閣で、外相は長州藩出身の青木周蔵。彼が赤羽に指示して司法省と連絡をとらせたのだろう。司法大臣は同じ長州藩出身の山田顕義だから「ツーカー」だったはず。青木は長く条約改正交渉に従事しており、事件による国際関係の悪化を危惧していたのは間違いない。
4月10日付東日は「ラージ氏殺害事件余聞」としてこんなことを書いている。「ラージ氏を殺害した凶賊が小使を縛りつけ、金庫の所在を尋ねたと前に書いたが、それは誤聞で、小使は賊が刀を抜いて侵入したため強盗だろうと狼狽して『金庫の所在は隣の部屋だ』と言ったが、賊は金庫の所在は後にして『校長の寝室に案内せよ』と言ったので、すぐ案内したそうだ」。
こうした経緯のためだろう。元検事が書いた小泉輝三朗『明治犯罪史正談』は「喜兵衛は驚きのあまりぼうぜんとして、ほとんど賊の人相風体を語ることができないばかりでなく、ミセス・ラージ(イライザ)がこの小使を疑って、これが賊の手引きをしたのではないかと言った」と述べる。しかし、喜兵衛に怪しい点はなく、疑いはすぐ晴れた。
犯人逮捕への協力で“懸賞金”も?
10日付の読売と郵便報知、時事新報は「犯人を警視総監に密告する者があれば300円以上の賞金が与えられるともいわれる」と懸賞金が出たことを示唆した。当時の300円は現在の約168万円。3紙は「外国にも例がある」と書いているうえ、時事はイライザも100円(同約55万円)の懸賞金を申し出たと記した。事実だとすれば、これが日本の事件捜査で懸賞金が懸けられた最初のケースだったかもしれない。
4月11日付東朝は1面に「嫌疑(者)拘引」の記事を掲載。時事新報、やまと新聞も同様の記事を載せたが、どんな人物かはいずれも不明。郵便報知の13日付では、タバコ入れの捜査から浮上したらしい陸軍将校付き馬丁(乗馬用の馬を世話する使用人)2人が嫌疑者として登場。14日付では日本刀を持って強盗に入り、逮捕された男がラージ殺しとの関連でも調べを受けていると書いた。
嫌疑者が現れるも「シロ」で迷宮入り
17日付の郵便報知と時事新報には、嫌疑者が仙台で逮捕されたとの情報が載り、18日付時事は「既に嫌疑者十数名引致のうえ、目下取り調べ中だが、まだ十分な証拠も上がらぬようで、おいおい釈放する者もある」と書いた。以後も千葉県や埼玉県で嫌疑者が現れるなどしたが、いずれも「シロ」。
1892(明治25)年には、詐欺のため静岡県で服役中の男がラージ殺しを自供。実名で報じられ東京へ移送されたが、調べの結果、自供は全くのウソと判明した。ほかにも有力とされた嫌疑者がおり、のちに「真犯人」が判明した際には複数の新聞が「3人が起訴された」と書いた。だが、事件はそのまま迷宮入りとなった。