三宅さんが小学校高学年の頃、母親に連れられて陶芸体験に行ったことがある。最初、男性講師が丁寧に作り方を教えてくれていたが、途中、母親が席を外した途端、男性講師の教え方が横柄で厳しいものに豹変した。その帰り、三宅さんが母親に、「あの先生、お母さんがいなくなったら急に怖くなった」と泣きながら話すと、母親は満面の笑みを浮かべながら、「なんやなんや? お母さんがおらんやったら、あの先生厳しくなったんか?」と嬉しそうに言った。
「自分が見ていないところで子どもをぞんざいに扱われたら、普通の母親なら怒りますよね? そのときは幼くてわかりませんでしたが、今はわかります。母は、あの陶芸の先生が、『自分に気がある』と思ったから喜んだのです。小さい頃から『可愛い』『美人』とちやほやされて育ち、女王様だった母は、いつまでも自分が一番じゃないと気に入らず、娘にその座を奪われたくなかったのだと思います」
長年、母親から褒めていることにして貶す言い回しで巧みに貶められてきた三宅さんは、「常に自分はダメでおかしくて汚くて、周りが正しいという信仰心みたいなものができていました」と言うように、自信がない子どもに成長する。
一方妹弟は、三宅さんが養父から夕食を大量に食べさせるなどの嫌がらせを受けている間、養父の足元でニヤニヤしながらその様子を眺めていた。家族で出かけても、三宅さんだけ一日中車の脇に立たされ続けていたこともあるが、妹弟は少しも気にとめなかった。
「私が養父に、ゴミと一緒に箒で掃かれる姿を笑いながら見ていた2人の顔が今でも思い出されます。2人はきちんと血のつながった姉弟だったのでいつも一緒でしたが、私は父が違ううえ、年が離れていることもあり、私だけがよそ者扱いでした」
養父との離婚
再婚当初は養父の機嫌をとり、色目を使っていた母親だが、だんだん馬脚を現し、年々夫婦仲は悪化。三宅さんが中学生になる頃には、お互いにゴルフクラブや金属バットなどを持ち出し、血まみれになって罵り合う激しい喧嘩が頻繁に。外面を気にする母親にもかかわらず、近所に警察を呼ばれたことが何度もあった。
養父からの虐待に耐えかねていた三宅さんは、ゴミ扱いされたことをきっかけに、かろうじてつなぎ止められていた最後の糸が切れた。「ああ、自分はゴミ以下なんだな、人間ではないんだな」と肩を落とし、荷物をまとめると、同じ敷地内の祖父母の家で暮らし始めた。母親は妹や弟、親族らには、「あの子は高校の受験勉強のために祖父母宅に移った」と取り繕って回った。
子どもの頃から絵を描くのが好きで、イラストや漫画、デザインの道に進みたかった三宅さんだが、母親からはことごとく妨害され続けていた。