『いいとも』では生放送終了後、レギュラー出演者が30分強のフリートークを行い、その一部は『増刊号』で放送される。後年はあらかじめテーマが設けられるようになったが、それまでは完全な「即興」だった。
「本当にその場でしかできないものを見てるから、観客もノってくるんですよ。ようするに『現場に立ち会ってる』興奮なんです」「お笑いでもジャズでも、人となにかやるからにはやっぱり自分も変わりたいし、相手も変わってほしいなと思ってるんです。やっぱり、そこがいちばん、おもしろいところなんですよ。現場に立ち会ってるという、生な感じが」(「こんどの『JAZZ』、どうする?」『ほぼ日刊イトイ新聞』 2007年)
それを生放送で実践し、絶大な人気を博したのが明石家さんまとのトークだった。台本はもちろん、打ち合わせすらなく、小さな丸テーブルを挟んでふたりが即興でしゃべり合うだけのこのコーナーは、1984年に「タモリ・さんまの雑談コーナー」としてスタート。以後「日本一の最低男」「日本一のホラ吹き野郎!」「もう大人なんだから」と名前のみを変えながら、11年間という長期にわたって継続された。
「日本で初めて『雑談』というものをテレビでやった」とタモリは胸を張る。
脱線を繰り返す彼らのトークは激しくスウィングした。「その場、一回限り」の空間を共同で作り上げていく興奮。演者はもちろん、客席もその熱に巻き込まれずにはいられない。
あのドアを開けると開けないじゃ、人生は変わってた
タモリが山下洋輔らに「発見」されるエピソードは、その特異さゆえあまりにも有名だ。そしてここでもジャズと、それによって培われていたアドリブ芸が大きな役割を果たしている。
タモリがまだ会社勤めをしていた1972年、博多で山下洋輔と渡辺貞夫のコンサートが行われた。公演後タモリは、渡辺貞夫のマネージャーを務めている学生時代からの友人(とタモリ本人は語っているが、一方で山下の「タモリは、ジャス研出身のバンドメンバーに会いに来ていた」という証言も存在する)と、彼らの宿泊先のホテルの一室で飲んでいたという。
そして午前2時頃に帰宅すべく部屋を出て廊下を歩いていると、どこからかドンチャン騒ぎと笑い声が聞こえてきた。それが山下洋輔バンドの部屋だった。
「無茶苦茶な歌舞伎をやってるんですね。『(歌舞伎口調で)オォゥオォォ』とか言ってるんですよ。それで、こうやって(ドア越しに)聞いてて、『俺はこの人たちとは気が合うな』と思ったんですよ(笑)。気が合うんだから入ってもいいだろうと。で、ドアを開けようと思ったら鍵がかかってないんですよ」(『題名のない音楽会』テレビ朝日 2009・6・28)
タモリがドアの隙間から様子をうかがうと、浴衣を着たサックス奏者の中村誠一が底の抜けた藤椅子を頭に被り、デタラメな歌舞伎を奇声をあげながら演じていた。