「そん時に神様が降りてきて、『今、おまえの出番だ』って言ったんです。そのまま『(歌舞伎口調で)この世の~』って(入っていった)」「それで、もうドンチャン騒ぎになりまして、夜明けまでやって『あ、いけね、帰ります』って言ったら山下さんが『ちょっと待て。あんた、いったい誰なんだ?』って。『あ、森田と申します』って帰ったんです」(『題名のない音楽会』テレビ朝日 2009・6・28)
その時の様子を山下は、1977年刊行の著作『ピアノ弾きよじれ旅』でこう振り返っている。少し長くなるが引用したい。
「(中村が)唄い踊っていると、部屋のドアが開いて、知らない男が、中腰で踊りながら入って来た。鮮やかな手つきだった。時々、ヨォーなどと言いながら中村の側までやって来た。それから妙な手つきで、中村の頭から藤椅子をとってしまい、自分がかぶって踊り続けた。我に帰った中村が、踊りをやめ、すごい勢いでまくしたてた。少しは自信のあるデタラメ朝鮮語でだ。すると驚いたことに、この男はその三倍の勢いで同じ言葉を喋り返した。この照り返しにびっくりした中村はそれならと中国語に切り換えた。
男は五倍の速さでついてきた。これはいかんとドイツ語に逃げた。ますます男は流暢になった。イタリア、フランス、イギリス、アメリカと走り回るうちに、男の優位は決定的になってきた。最後に男の顔が急にアフリカの土人になってスワヒリ語を喋り出した時は、おれはたまらずベッドから転がり落ちた。すでにそれまでに、笑いがとまらず悶絶寸前だったのだ。
中村はいさぎよく敗北を認め、ところであなたは誰ですか、と訊いた。『森田です』とそいつは答え、これがおれにとってタモリの最初の出現だったというわけだ」(『ピアノ弾きよじれ旅』山下洋輔/徳間書店 1977)
帰り際、タモリに誰何したのが山下か中村かで証言が食い違っているが、当事者である山下自身によって語られている点を考慮すると、中村の可能性が高いかもしれない。しかし真相は不明だ。タモリは振り返る。
「俺の人生の扉、ドアはあのホテルのドアだった、あれを開けると開けないじゃ、人生は変わってた」(『SMAP×SMAP』フジテレビ 2006・4・17)
「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」
この出会いに衝撃を受けた山下洋輔は新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」などで、ことあるごとに「九州に森田という、すごい面白い奴がいる」と喧伝し、やがてバーのママ・A子女史の発案で、「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が常連客により結成された。
あのドンチャン騒ぎの夜、ホテルのフロアにはジャズ関係者ばかりが泊まっていた。ならばジャズ喫茶に行けば、何か手掛かりがつかめるかもしれない。
そう考えた山下が博多で一番古いジャズ喫茶に向かい、「森田という男を知らないか」と聞き込むと、果たしてタモリはそこの常連客だった。「知ってるよ」と店主はその場でタモリに電話し、ふたりは再会した。
そして1975年6月に「森田を呼ぶ会」によって集められた東京行きの新幹線代がタモリの手に渡り、ついに上京を果たすことになるのである。