――舞台への出演は、どなたかに勧められたのですか。
草刈 若尾文子さんです。「あんた、背も高いから映えると思うし、舞台やんなさいよ」と勧められてね。僕は極度の気弱ですから、舞台が怖かったんですよ。舞台って“3時間ワンカットNGなし”なわけでしょう。モデル上がりで、劇団に所属したこともなかったので、俳優としてのトレーニングを積んでいない。とてもじゃないけど、やれる気がしない。でも、若尾さんは「簡単に考えればいいじゃない」とも仰って。
そうしたら、『ドラキュラ その愛』(1984年)という舞台のオファーが来たんです。あのオファー、若尾さんが松竹の方に声を掛けてくれたんだと思うんですよ。若尾さんの言葉、さらに沢村さんの言葉も頭をよぎって、やってみることにしたんです。
やってみたら、とても面白かった。なにより、怖かった“3時間ワンカットNGなし”を乗り越えられたことで、役者としての自信がつきましたね。舞台というフィールドを開拓できたので、仕事が途切れることもなかったですしね。
若い頃は「この姿だから仕事が来るんだ」と考えていたけど…
――二枚目路線のコンプレックスは、もうなくなりましたか。
草刈 肝に銘じ続けてはいます。若い頃はモデルから始めたこともあって、「この姿だから仕事が来るんだ」と考えていたけど、そんなわけがないですから。
いろんな俳優さんとご一緒して、刺激を受けて、そこから勉強させていただいて。「多少は芝居ができるようになったかな」と思いますけど、しばらくするとまた自信がなくなっちゃう。もっと落ち着いて、役者の仕事を楽しめばいいんだけど、なかなかそれができない。そんなことを、ずっと繰り返していますね。
――二枚目路線の極致が『汚れた英雄』(1982年)だと思うのですが、いま観ても当時の草刈さんの無双ぶりには圧倒されるものがあります。でも、そうしたお話を聞くと、ひょっとして当時はつらかったのではないかなと。
草刈 自信がないのにやっていたといいますか。ヒット作を連発していた角川映画で主演を張れるなんて嬉しいことだし、同じ角川映画の『復活の日』(1980年)と『汚れた英雄』が、いまの僕につながっている大事な作品なのは間違いないですけどね。
僕のなかでは変化球を出してやりたかったけど、監督を務めた角川春樹さんが「徹頭徹尾、カッコよく撮っていきたい」と仰って。角川さんは、歩き方ひとつにもこだわりがあって、何度も撮り直しました。まぁ、変化球を出したい自分と、作品の方向性の間で葛藤したところもある撮影でしたね。