「前は、結構いい女だと思った覚えがあるんですよね。離れて育ってるから、おふくろを一個の女として見ちゃうんですね」「やっても不思議はないんじゃないかと。ただし、(母が)妊娠しやすいから気をつけてるだけでね(笑)。それが近親相姦に一歩ブレーキをかけてるだけなんだよね」(『ビッグトーク』文藝春秋・編/文藝春秋 1986年)
会社を畳んだあとにゴルフブーム到来
福岡の下町でスポーツ用品店を営んでいた母は、働くことが好きだった。タモリが中学生だった1957年頃、母は「今に日本中にゴルフ場ができる。そこで、みんなゴルフをするようになるし、これは社交上必要なことになってくる」とゴルフブームの到来を予見し、祖父と意見が一致。さすがにゴルフ場の経営はできないため、ゴルフ用品の販売会社「森田ゴルフ」を立ち上げた。
大量に商品を仕入れたが、しかし1年たっても2年たってもゴルフは注目されない。結局3年目に店を畳むと、皮肉なことにその後まもなくゴルフブームがやってきたのだった。
倉庫にフルセットが余りまくっていたため、タモリは高校時代からゴルフをしていた。だから大人になった時はすでにゴルフに飽きていた。「なにを今更、あれは高校生のやるもんだよ(笑)」と、まだゴルフを再開する前のタモリはうそぶいている(『ビッグトーク』文藝春秋・編/文藝春秋 1986年)。
タモリが高校生の頃、3度目の結婚をした母は、やがて横浜に移り住んだ。
横須賀中央駅馬堀海岸の先に住んでいた母や母方の祖母に会いに行く時は「赤い電車」の京急電鉄を使っていた。先頭車両に陣取りそこから前面展望を眺めては、「お、このカーブをこのスピードで突っ込んでいくのか!」(「TITLE」文藝春秋 2006・10)と興奮。
また横浜を訪れた時、「自分が思い描いていた都会は横浜だ」(TAMORI CUP「公式HPインタビュー)と感じ入り大好きになった。ちなみに東急東横線沿いに現在の家があるのは、そのためだという。