『天才バカボン』や『もーれつア太郎』など数々の名作を世に送り出し、“ギャグ漫画の王様”と呼ばれた故・赤塚不二夫。その赤塚不二夫の名作漫画、『おそ松くん』と『ひみつのアッコちゃん』が今年で連載開始60周年を迎える。
前編では赤塚不二夫のひとり娘であり、株式会社フジオ・プロダクションの代表取締役社長でもある赤塚りえ子氏に『おそ松くん』や『ひみつのアッコちゃん』をはじめとする数々の赤塚不二夫の名作漫画の誕生秘話を語ってもらった。
今回は、父である赤塚不二夫との知られざる親子関係や、父や作品への想いなどを聞いた。(全2回の2回目。最初を読む)
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毎日が締め切り、それでも夜ごと新宿へ
――赤塚先生は1960~70年代には数多くの作品を描かれていましたが、一番忙しかった時はどれくらいの連載を抱えていたのでしょうか。
赤塚 一番多い時で週刊・月刊あわせて12本抱えていたそうです。平日は週刊を描いて、週末は月刊という感じで、本当に毎日毎日、違う漫画の締め切りに追われていたと聞いています。
――頭の切り替えがすごいですね。
赤塚 すごいですよね。ただ、漫画はプロダクションで作っていたので、父は自分の仕事が終わると、そのあとはすぐにアシスタントの方に任せて、自分は新宿に飲みに行っていたんですよね。そこでひたすらバカ騒ぎをして頭を切り替えて夜中に帰ってきて寝て、すぐにまた朝11時ぐらいからアイデア会議という毎日だったみたいですね。
――多忙を極めるなかでもお酒を飲みにいくことは欠かさなかったんですね。
赤塚 欠かせなかったみたいです。当時、幼稚園生だった私が父に「パパ、新宿の女好きでしょう?」って言ったくらい。父は「そう言った時のりえ子の顔がものすごく怖かった」って言っていました(笑)。
父は観察力がすごくあって、なんでもかんでも物の特徴を捉えたり面白がったりするのが得意だったので、飲みに行ってバカ騒ぎして面白いのを見つけちゃったりとか。それがキャラのヒントになったり、アイデアのヒントになったりしていたんだと思います。