もちろん当時、飛行機などは使えない。東京から汽車を乗り継いで下関まで行き、フェリーに乗って、ソウル経由で満州までたどり着いたのだ。幸いなことに、祖母が万一の時に備えて、お金だけは十分に持たせていたため、ひとりでも帰ることができた。
この話をタモリの母は、朝5時まで話していたという。
「講談ですよ。壮大な物語です。私は酔っ払って、ほとんど内容を忘れちゃったんですけどね(笑)」(『ビッグトーク』文藝春秋・編/文藝春秋 1986年)
タモリの母は20歳でタモリの姉を初産、23歳でタモリを産み、その約3年後に離婚、タモリたちと別居した。その後2度再婚をし、それぞれふたりずつ、計6人の子を産んだ。
タモリが小学校高学年の頃、別居していた母が再婚のお見合いをするため、半年ほど家に帰ってきたことがあったという。お見合い相手のひとりは自衛隊員で、お見合いがてらよく麻雀をしに遊びに来ていた。真面目な人柄でタモリは好感を持っていたが、祖父は反対した。いわく自衛隊や警察など、「制服を着てる奴が大嫌い」だと。しかしタモリに言わせれば、「てめえは鉄道で制服を着てたくせに(笑)」というところだ(『ビッグトーク』文藝春秋・編/文藝春秋 1986年)。
だが祖父ばかりでなく、母親も「どうもにやけ過ぎてる」と難色を示し、タモリの血筋だけあって弁の立つ祖母も「ああいう態度の男ははっきりしない」「濡れ雑巾みたいな男」「濡れナマズ」と散々な評価で、結局この話は流れてしまう。その後別の男と再婚するが、それが誰なのかはタモリの知るところではなかった。
一個の女として見ちゃう
その母が一時帰宅中、「久し振りに、一緒に風呂に入ろう」とタモリを誘ったことがある。小学5~6年生だったタモリが応じると、母は黒いスリップ姿で現れた。
「俺は当時、女というのは三歳上の姉さんか祖母さんしか知らないわけです。祖母さんはでかパンをはいてましたからね(笑)。だから黒いスリップを見た時は、ドキッとしましたもんね」(『ビッグトーク』文藝春秋・編/文藝春秋 1986年)
それがきっかけで、実母を「女として」見てしまうようになったのだという。