今年メジャーデビュー50周年を迎えたイギリスのロックバンド・クイーンが、ボーカルにアダム・ランバートを加えて、大晦日の紅白歌合戦に登場する。

 クイーンの音楽はなぜこれほど世界中で愛され続けるのか。そして、1991年に45歳で亡くなったフレディ・マーキュリーという天才のすごみ、その生涯とは? 彼らの足跡を追い続けてきたジャーナリスト・米原範彦氏による『フレディ・マーキュリー解体新書』(平凡社新書)より抜粋して紹介する(一部改稿)。(全2回の1回目/続きを読む)

1991年に45歳で亡くなったフレディ・マーキュリー ©getty

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バンドの個性をリスナーに刻印した


 フレディの曲では、ブライアンのギターは、音色を慎重に選びながら歌を盛り立てるように奏でられ、あるいは絡みつきながら歌に緊張感を与える。「輝ける7つの海」「伝説のチャンピオン」「プレイ・ザ・ゲーム」などが好例だ。

 一方、ブライアンの曲では、フレディは有節形式の2、3番目で高めの音を入れて旋律を崩しながら変化をもたせる。重厚なギターソロは十分歌わせ、リフなどでは対話するように掛け声やセリフ調を交えて歌ってギターを引き立て、「アウッ」「オーイェイ」「ヘイ」などのジャブ・合の手も入れてじゃれる。

「タイ・ユア・マザー・ダウン」「ドラゴン・アタック」などを聴くと自ずから分かるだろう。それぞれの曲は単調を逃れて、豊饒な一幕となるのである。

『クイーンII』は、コアなクイーン・ファンが絶賛するコンセプトアルバムになった。ヘッドライナーとして初の英国ツアーも実施し、同じく74年に3枚目『シアー・ハート・アタック』も出し、スマッシュヒット「キラー・クイーン」が生まれる。バンドの個性をリスナーたちに刻印した曲である。

クイーン3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』

 75年にはヘッドライナーとして初の米国ツアーを展開した。日本での初公演もこの年だった。そして11月、ロック史に残る傑作『オペラ座の夜』が発表される。約6分間という異例の長尺曲でスキャンダラスだった「ボヘミアン・ラプソディ」が収録された名盤である。

「絶対にしない」と決めたこと

 当時のシングルの常識は、ラジオのローテーション上、取り上げやすいという理由でおおむね3分間以内。イエスの「ラウンドアバウト」も本来8分30秒くらいだが、短縮してアメリカでシングルカットし、全米13位まで上がった。フレディは振り返る。

「このままの形でヒットするはずだと言って、絶対に譲らなかったんだ……。曲を切り刻むことだけは、これからも絶対にしない」。

 フレディの確信した通り、「ボヘミアン・ラプソディ」は全英チャートで9週間連続1位を記録した。

 ここまでデビューからわずか2年。フレディは極めて短い時間で、頂点に駆け上っていった。70年代のクイーンを、コンセプトイメージの面でも楽曲の面でも引っ張っていったのはフレディであって、デビューまでの塩漬け期間約2年間は、フレディ自身が業界に振り回されることなく、純粋に内面と向き合い、楽想を育成した期間だったのだろう。