アメリカ市場への挑戦
『華麗なるレース』を発表した76年12月を区切りとして「第1ステージ」は終焉し、クイーンは次なる「第2ステージ」に向かっていく。
イギリスではパンク・ロックが気炎を吐く時代に入っていた。クイーンの革新性や奇抜性はあくまでポップス・ロック界内の話だったのに対し、パンク・ロックはその時代やファッションを自分の色に染めた。
それに追い立てられた側面もあるが、77年、クイーンは多重録音の神秘を一旦引き出しにしまって、ライヴになじみやすい比較的シンプルなサウンドを集め、『世界に捧ぐ』をリリースした。アメリカ市場にシフトしたのである。
後にスポーツアンセムにもなっていく 「ウィ・ウィル・ロック・ユー」「伝説のチャンピオン」が収録されている。ライヴの観客とのコール&レスポンスの密度はかなり充実していく。大規模なツアー生活も続いた。
フレディは76年ごろ、自分のセクシュアリティをメアリーに打ち明け、同棲に終止符を打ったという。2人はその後、古今東西極めて珍しい愛情と友情を深めていくのである。別れに際しては、2人とも身を引き裂かれるような思いだったろうが、次第に一緒に住むことなどそれほど重要ではなくなるのである。
アメリカ市場への挑戦は、78年の『ジャズ』、80年の『ザ・ゲーム』へと進展してゆく。 これまでこだわり続けた「ノー・シンセサイザーズ」の表記がジャケットから消え、初めてシンセサイザーを導入したアルバム『ザ・ゲーム』は全英・全米とも初の1位を記録し、シングルカットされた「愛という名の欲望」「地獄へ道づれ」も全米1位を獲得。
フレディはこのころから口ひげを蓄え、服装も一気に簡素になった。クイーンはスタジオにこもり、実験を続けて1曲を凝りに凝って仕上げていく姿勢から脱却しつつあった。