どうして「鶴見」はこんなに大きくなった?
近代都市としての鶴見は、1872年の鶴見駅開業にはじまる。なぜ鶴見に駅が置かれたのかはよくわからないが、川崎と神奈川の中間にもうひとつ駅があったほうが都合が良い、くらいの理由だったのだろう。これをきっかけに、駅の周辺に市街地が形成されてゆく。その中心軸が旧東海道だったことは疑う余地がない。
ただ、本格的な発展はもう少し後のことだ。
第一京浜の東側には、鶴見川が流れて東京湾に注いでいる。鶴見川の対岸は、かつて潮田町と呼ばれていたエリア。鉄道が開業した頃には海沿いの農漁村に過ぎなかったが、いまではすっかり住宅地に生まれ変わっている。
旧東海道を南にしばらく歩いて左に折れ、第一京浜も渡って潮見橋で鶴見川の対岸へ。その先には、「ほんちょう」と書かれたゲートアーチが掲げられている。歩道には屋根がかけられている、いわゆる潮田エリアの商店街だ。
この道をずっと東に歩くと、仲通勉強会という商店街とも交差する。こちらは屋根が架かっているような立派な商店街ではないし、どちらもシャッターが閉じられている店のほうが目立つ。ただ、ところどころには昔ながらの看板建築の商店もあり、歴史の古さを感じさせてくれるエリアだ。
鶴見駅から鶴見川を渡って東岸へ。この一帯に広がる住宅地は、明治の終わり頃から大正時代になってから形成された。その背景にあるのは、京浜工業地帯の造成である。
京浜工業地帯が変えてゆく「鶴見」の風景
東京湾の埋立地に広がる京浜工業地帯は、川崎市から横浜市にかけての臨海部に広がる。ほとんどが海の上に築かれた埋立地。鶴見においては、首都高や鶴見線よりも南側の一帯がそれにあたる。
大正時代の初めに浅野財閥によって150万坪もの埋立事業がはじまり、以後工業地帯として発展していった。鶴見線の前身である鶴見臨港鉄道が開業したのは、おおよそ工業地帯の形が整った1926年のことだ。
なお、旧東海道から鶴見川を渡る潮見橋は、もともと有料の渡し舟だったという。鶴見川東岸はさしたる産業もない農漁村だったのだからとうぜんともいえる。1910年には橋が架かったが、それからも通行にはお金がかかっていた。