それを無料にしたのが浅野財閥の創始者・浅野総一郎。橋をまるごと買収して町に寄付し、1916年以降は無料で渡れるようになったそうだ。
ともあれ、大正時代に築かれた埋立地の京浜工業地帯が、農漁村だった潮田と小さな市街地があるばかりだった鶴見駅周辺も変えてゆく。工業地帯の後背地として、そこで働く人々の暮らす住宅地となり、さらに憩いの場として三業地が形成される。鶴見駅の近くにも社宅が置かれ、幹部が通う料亭なども設けられた。それが、鶴見駅近くの旧三業地のルーツだ。
「宿場の合間の農村」が30万人都市の玄関口になるまで
また、潮田エリアは沖縄出身の人々が多く暮らしていることでも知られる。朝ドラ『ちむどんどん』でも登場した仲通商店街がそれ。沖縄からブラジルをめがけて渡航しようとして横浜にやってきた人が、手続きの不備でブラジルには渡れず京浜工業地帯に職を求めて住み着いたのがはじまりだという。
つまり、鶴見の町は宿場と宿場の間のしがない農村から、鉄道が通って発展の足がかりを得た。そして京浜工業地帯によって飛躍を遂げたというわけだ。
鶴見区の前身、鶴見町が誕生したのは1921年。生麦村や鶴見村などが合併してできた生見尾村が町制施行して鶴見町になった。1925年には鶴見川東岸の潮田町を編入し、さらに1927年には横浜市に編入されている。横浜市が区制を施行して鶴見区が生まれたのもこの年のこと。こうした変遷は、鶴見の町が大正時代に一気に都市として生まれ変わったことを教えてくれる。
こうした鶴見の発展をさらに後押ししたのが、總持寺の移転だ。鶴見駅のすぐ西側にある曹洞宗大本山の總持寺は、1911年に石川県から移転してきた。ほどなく門前町が形成されてゆく。鶴見駅の西側にも商店街を軸とした市街地が広がるが、その原点は移転してきた總持寺の門前町なのだろう。
かくして、鶴見は東に工業地帯、西に總持寺を抱え、30万都市の玄関口として発展していった。品鶴線などが開業して鉄道の要衝になったのも昭和の初めにかけて。その中心にあった鶴見駅が、いまも武骨で殺伐とした雰囲気を持ち合わせているのは、こうした歴史の映し鏡になっているから、なのだろう。
写真=鼠入昌史
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