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裂け目だらけの道路、谷底に崩落した峠道、そして横倒しになったビル…不肖・宮嶋が見た能登半島地震の惨状

能登半島地震#1

2024/01/10

genre : ニュース, 社会

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 強い揺れによる家屋の倒壊、逃げる間も与えられず、直後襲いかかる津波に火災、そこに足腰悪いお年寄りや無垢な子供が閉じ込められていようがなんの容赦もない。それもよりによって元日の夕刻である。親戚縁者、幼馴染、皆が故郷に集い、新年を祝っていた真っ最中を狙いすましたようにである。

©宮嶋茂樹

取材中は炊き出しどころか水一滴貰わず、トイレも自前やで

 不肖・宮嶋も両親が残した明石の実家に帰省中、正月の夕刻は四国の道後温泉で温泉にでも浸かろうと上着を脱いだそのときであった。カメラマン生活40年の我が耳を疑う津波警報を聞いたのは。すぐに上着を着直し、実家のファミリーカーで4時間かけて明石にもどった。そこで1995年1月17日発生した阪神淡路大震災後、買い置きしていた20リッターガソリン携行缶4缶、飲料水さらに食糧を積み込み、完全ではないものの、これまた実家に置いていた機材を積み込んだところで、ハッチバックの車の後部スペースはパンパンにふくれあがっていた。

 すでに自衛隊には出動命令が下り、全国から警察、消防、海保もすぐに駆けつけるはずである。まずは救助を待つ人々の救出と消火、さらに安否確認そして行方不明者捜索である。そんななか人命救助、復旧、復興に屁のツッパリにもならない我々カメラマンが現場に入る必要性はあるのか。新聞、テレビも同様であろう、被災地には新聞は届かない、電気や電波が来てないとテレビも映らない、避難所や孤立した集落で必要な給水、炊き出し、救助隊の進展情報などを我々はなんら提供できんのである。それでも能登はいずれ復興する。その時、現地の民は、日本人はいかにこの困難を克服したのか、それを記録し、後世の人間に伝えることぐらいはできる。その時の我々の写真が近い将来また再びやってくる天災に備える助けになることはできる、そう信じ現場に向かうのである。

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 それでも我々が現場に行くことで、救助される側になる事だけは絶対避けねばならぬ。避難所で被災民の方が口にするべき炊き出しどころか、水一滴分けてもらうわけにはいかんのは常識である。また下から出す方も同様である。能登半島といえど、現在はほぼすべて水洗トイレ、公衆便所ですらウォシュレットがついている。そうなると地震の被害によりトイレすら使うことができない。当然簡易トイレも持参することになる。簡易トイレとは、自衛隊のPKO(国連平和維持活動)や最近の被災地でも自治体が常備するいわゆる凝固剤でクソを固め、持って帰るチューブグソである。

©宮嶋茂樹

 それでも不安である。しかも不肖・宮嶋、還暦過ぎである。昨年は人生初の長期入院と2度に渡る手術も経験した。腰痛は悪化する一方、常備薬が手放せない、もはや今度の現場でも最年長カメラマンのはず、無い無いずくしの現場で周囲にどんな迷惑、面倒をかける…わけにはいかんのである。

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