かつてメインバンクから融資の継続を拒否されるほど、吹けば飛ぶような規模の小さな会社だったナイキが、なぜ「世界一のスニーカーブランド」になれたのか…?

 スニーカーショップ「atmos」創設者で元「Foot Locker atmos Japan」最高経営責任者の本明秀文氏による初の著書『スニーカー学 atmos創設者が振り返るシーンの栄枯盛衰』(KADOKAWA)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

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エアマックス95が塗り替えた世界

 新品のスニーカーにプレミアム値段(プレ値)が付くようになった原点を探ると、1990年に発売された「ナイキ」エア ジョーダン5に辿り着きます。ご存じの通りエアジョーダンシリーズはNBAのトッププレイヤーであるマイケル・ジョーダンのシグネチャーモデルです。

 当時のNBAは派手なカラーリングのシューズを履くと罰金を取られていましたが、それでもマイケル・ジョーダンはあえて履き続けたというエピソードや、本国アメリカでは発売された際にあまりの人気ぶりから殺人事件まで起きたなど、様々な逸話に事欠かない一足です。

 そして、それまでファッション好きの間で盛り上がっていたスニーカー熱が、初めて日本のお茶の間まで届いたのは、「ナイキ」エアマックス95が登場した時でしょう。

NIKE AIR MAX 95 OG イエローグラデ(画像:筆者提供)

 それまでのエアマックスシリーズはあくまでランニングシューズであり、取り扱いもスポーツ用品店がほとんどでした。当時の「ナイキ」は今のようなブランド力を有しておらず、売上も「プーマ」や「リーボック」と同じ程度。そのなかでエアマックス95の1stカラーであるイエローグラデの黒のソールは当時のスポーツシューズとしては極めて異質なデザインとあって、スポーツ店のバイヤーたちも「売れないかもしれない」とリスクを恐れて仕入れ数を少なめに抑えたと言われています。

 そのため発売当初はスポーツ専門誌でも小さな扱いで、ショップでの売れ行きも緩やかなものでしたが、反対に裏原界隈では比較的好調なセールスを記録したと言われています。それはエアが露出した独創的なデザインと当時最高のテクノロジーによる履きやすさがファッション感度の高い業界人に響いたこともありますし、スポーツ用品店が仕入れ数を抑えたことでほぼ並行輸入でしか手に入らないというレアさが所有欲に拍車をかけた側面も大いにあります。