スタイリストやファッション誌の編集者、アパレル関係者といった原宿界隈の人たちを中心にエアマックス95は徐々に認知度を増していった結果、広末涼子が当時の裏原文化を主導していた雑誌『Boon』の誌面やドコモのCMで履いたり、木村拓哉が様々なシーンで着用したりとメディアを飾る機会も増え、1996年に3rdカラーに当たるレッドグラデが発売されたあたりから人気が爆発。
特にオリジナルカラーであるイエローグラデは、もともとの発注数の少なさから憧れの一足となり、1997年頃には新品ならば20万円近い価格で転売されるようになっていきました。
日本人バイヤーがアメリカのスポーツ用品店を訪れて「ここにあるエアマックスを全部売ってくれ」というような買い方をして店員を驚かせたり、エアマックス95を履いている若者を徒党を組んで襲いスニーカーを奪うエアマックス狩りが発生したのもちょうどこの頃の話です。
ワイドショーや新聞を騒がせるほどブームが過熱した結果、エアマックス狩りやフェイク商品の横行などのネガティブな報道も増えていきました。高感度なユーザーは自分たちが純粋にファッションピースとして気に入っていたアイテムが俗な欲の対象として扱われることで白けていったこともあり、エアマックスブームがいち段落した1998年以降はハイテクスニーカーにとって冬の時代がやってくることになります。
ただし、エアマックスブームは一時の狂騒だったかというと、そうではありません。ブームが巻き起こった結果、それまでスポーツ用品のひとつに過ぎなかったスニーカーが、一気にファッションアイテムとして認知されるようになったからです。当時を振り返ってみると、日本中が熱狂したあのブームが無かったら今のスニーカーシーンは存在していないと言っても過言ではないと思います。
まさしくエアマックスブームは原宿の並行輸入店というストリートから誕生したもので、「ナイキ」もエアマックス95がこれほど伝説の靴になるとは意図していなかったはずです。たとえ今のハイプスニーカーが20万円前後で取引されているとしても、自然発生的に起きたエアマックスブームとはその熱量も質もまったく異なるものです。
そして、原宿を中心に日本全体で一体感のあるムーブメントが起きたのは、エアマックス95が最初ではないかと思っています。
なぜナイキの「ひとり勝ち」が実現したのか?
2014年から巻き起こったハイプスニーカーブームとは、つまり「ナイキ」ブームとイコールでもあります。なぜ、これほどまで「ナイキ」のひとり勝ち状態になったのか。先ほどの項目でエアマックス95ブームについて説明しましたが、さらに時代を遡って同社の歴史を振り返りつつ、国際政治の流れと絡めながら説明していきましょう。
「ナイキ」が創業したのは1964年のこと。当初は「オニツカタイガー」(現・アシックス)のランニングシューズをアメリカで販売する代理店として創業しました。1971年からは「オニツカタイガー」から技術者を引き抜いて自社ブランドのランニングシューズの製造を開始していたものの、当時の「ナイキ」は何度もメインバンクから融資の継続を拒否されるほど、吹けば飛ぶような規模の小さな会社でした。