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 肝心な弓削の橋に屋根が付けられた年代については、西山さんでも特定できていなかった。御幸の橋の1886年(明治19年)よりも前か後かが争点になるが、資料が残っておらず、地元の方に聞きこんでも分からなかったという。神社の社殿は1897年(明治30年)に改修されているとの記録があるが、橋については記録がない。

「もう少し早く聞き込みしていれば……」

 西山さんは悔しそうにおっしゃった。私にも同じような経験が多々あるので、気持ちは痛いほどよく分かる。

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 その後、西山さんと弓削神社をお参りし、帰路につこうとした時、ふとした会話から石畳地区に実はもう1つの屋根付き橋があることが判明した。といっても、“石畳清流園”という観光施設の中に造られたものなので、公式な資料にはカウントされていないことが多い。だが、ここまで来て行かない訳にはいかない。14橋目となる屋根付き橋“清水川橋”に寄り道しながら帰路についた。

内子町の清水川橋

町役場職員からの“意外な返答”

 以前、屋根付き橋について内子町役場に問い合わせたことがある。職員さんと何度かキャッチボールし、自分がいくつか理由を挙げて御幸の橋よりも弓削の橋の屋根のほうが古い可能性があるのではないかと尋ねた。すると、こんな言葉が返ってきた。

昭和37年頃の弓削神社 写真提供:西山学さん

「想像ですが、明治30年の社殿改築の際かその前後に屋根が造られたものであれば、その旨が伝わっているのではないかと思います。それが伝わっていないということは、それ以前から存在していたと考えることができるのではないでしょうか」

 この返答に、私はハッとした。石畳地区には多くの伝承が残っている。明治時代であれば、それなりに大きな出来事は口伝で残っているはずだ。それまで屋根がなかった弓削の橋に新たに屋根を付けるとなると、地域にとって大きな出来事といえるだろう。そうした言い伝えが一切残っていないのは、明治時代よりも前から当たり前のようにずっと屋根があったことを示す根拠になり得るのではないか、という指摘だった。いうなれば、証拠がないのが証拠、ということだ。確かに説得力はある。

 公務員は正確なことしか言ってはダメみたいなイメージがあるが、想像した仮説を返答いただいたことが、何よりも嬉しかった。

大洲市のふれあい橋

 弓削神社の参道に架かる弓削の橋。ここから大洲藩における屋根付き橋の歴史が始まり、多くの生活橋にも屋根が付けられるようになった。そして、橋の上に集い、橋の上で寛ぐという独自の文化が形成されていった。私としては、現時点ではこういう結論にしておこうと思う。今後も楽しい調査は続き、内子町石畳地区を訪れることになりそうだ。

内子町の鳥居元橋

 2回目の調査の模様と調査結果は、CBCテレビ「道との遭遇」で既に放送され、2月7日正午までTVer等で視聴できる。興味のある方は、ぜひご覧いただきたい。

写真:鹿取茂雄

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。次のページでぜひご覧ください。