3回目の訪問でわかった“新たな事実”
今回は最古の屋根付き橋とされている大洲市の御幸の橋からスタート。御幸の橋は、天神社の参道に架かる太鼓橋だ。神橋には弓なり状の太鼓橋が多いが、弓削神社との共通点でもある。内子町で最古の弓削神社と大洲市で最古の御幸の橋、いずれも参道に架かる神橋だ。
そして、それ以外の屋根付き橋は全て生活橋となる。どちらがより古いかは定かではないが、神社の神橋を見て便利だと思い、周囲の生活橋にも波及していったのではないだろうか。
浪漫8橋を巡り、内子町で未訪問だった常盤橋を訪ね、南予地方の屋根付き橋13橋を全て巡った。
そして向かったのが、弓削神社だった。3か月ぶりに訪れると、弓削の橋の橋脚が1つ新しくなっていた。
弓削神社では、弓削神社がある内子町石畳地区を中心に歴史を調べている西山学さん(60)にお会いして、話を聞いた。西山さんは東京でシステムエンジニアとして働いていたが、10年ほど前に内子町へ戻ってきた。地域の価値は、外に出てはじめて気づくことも多い。
西山さんからは、かつては橋の上に炭俵を置いて保管していたことを聞いた。神橋とはいえ、やはり生活のためにも活用されていたのだ。先に岡本さんからお聞きした子供の遊び場だったという話も合わせると、権威ある神橋は地域に溶け込み、人々の生活とともに歴史を刻んできた様子がうかがえる。内子町にはもっと多くの屋根付き橋があったが、水害で流されるなどして多くは失われてしまったという。
また、橋の神社側は、土地が池に突き出したような形になっていて、そこに鳥居が建っている。この地形から、神社が建立された当時から橋が架かっていたことが分かると、西山さんが教えてくれた。なるほど、言われてみれば確かにその通りだ。
なお、屋根付き橋は南予地方に集中しているが、内子町と大洲市の広範囲に位置し、それぞれの距離がごく近いというわけではない。しかし、それぞれ歴史のある神社の神橋がルーツになっているように思われる。離れているにもかかわらず共通点が多い点について、西山さんに意見を求めてみた。
「内子町も大洲市も、元は大洲藩ですから。加藤家が治めていた大洲藩内で広がっていったのではないでしょうか」
なるほど。現在でこそ行政区分が異なるが、昔は同じ大洲藩だったのだ。それであれば、藩内で屋根付き橋が広まっていったと考えるのが理にかなっているだろう。