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「全キャン連」を復活させた男性が“キャンディーズ再結成”を望まなかったシンプルな理由「僕はむしろ絶対にイヤでしたよ」〈紅白で話題〉

「全キャン連」を復活させた男性が“キャンディーズ再結成”を望まなかったシンプルな理由「僕はむしろ絶対にイヤでしたよ」〈紅白で話題〉

2024/02/11

genre : ライフ, 社会

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 戦後の芸能史に残る有名なフレーズが飛び出したのは1977年7月17日、日比谷野外音楽堂でのコンサート中だった。

「普通の女の子に戻りたい!」

 当時のキャンディーズ所属事務所、渡辺プロダクションですら聞かされていなかった電撃的な「解散宣言」。3人のメンバーによる独断発表だった。

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「あの日は夏休み前で、『このあとたくさんツアーに行くから日帰りの東京はいいかな』と現場の野音にいなかったんです」

 痛恨の面持ちを浮かべ石黒謙吾氏が語る。

「全キャン連」「全ラン連」の代表を務める石黒謙吾さん ©文藝春秋 撮影・三宅史郎

「しかし友人が1人だけ金沢から東京入りしていて、宣言直後に情報が電話で伝えられました。彼は10円玉を6枚しか持っておらず公衆電話からの遠距離通話では『キャンディーズがやめれんて!』――ただそれだけでした。翌朝6時半、友人が夜行列車で金沢駅に戻ってくると、仲間5人で別の友人宅に集合しました。しかしやはり解散宣言は間違いないという。呆然として、その日は学校に行ったはずですが記憶がありません」

 ステージ上では「9月の解散」が告げられたが、翌日に3人が記者会見に臨み、引退は約半年間、先送りされることになった。

「解散を聞いた瞬間は何も考えられませんでしたが、日が経つと、実にカッコいいなと思い直しました。事務所が敷いたレールの上を走るだけではなく、彼女たちは自分の人生を自分で決め、自分の言葉で語るんだと。ファン側もそれを理解したことで、翌年4月4日、後楽園球場における解散コンサートへ向けて、全キャン連、そしてキャンディーズファンの連帯感は加速度的に高まっていったのです」

「終わったあと、何をしたらいいのかわからなかった。すべてを捧げてきましたから……」

 劇的な最終日を暗示するように、最後のシングル『微笑がえし』はキャンディーズの楽曲として初めてオリコン1位を獲得。

 1978年4月4日、後楽園球場。記録のために上空をヘリコプターが飛び、「ファイナル・カーニバル」と銘打たれた解散コンサート。石黒氏は前から19列目、1塁ベース付近にいた。5万人が最後のコールを絶叫し、トラック150台分のテープが舞ったこの日、キャンディーズは「伝説」となった。

76年秋、蔵前国技館での「10000人カーニバルvol.2」では、2階席で紙テープを投げていた石黒氏 ©中山傑仁

「終わったあと、何をしたらいいのかわからなかった。すべてを捧げてきましたから……廃人ですよね。高校3年生のときの記憶がまったくない。卒業後は芸大の油画科を目指すべく、上京して美術予備校に通いましたがすぐにドロップアウト。3浪でケリをつけて、ジャーナリスト専門学校に入りました」(石黒氏)