三島有紀子監督が自ら脚本を書いた『一月の声に歓びを刻め』が2024年2月9日から公開中。監督が47年間封印していた、自らが受けた性暴力を見つめ直し、それをモチーフとして作り上げた作品だ。
作品の舞台裏や演技論、これまでのキャリアなどについて、主人公を演じた前田敦子さんと語った対談を掲載する(初出:『週刊文春WOMAN創刊5周年記念号』)。
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性被害に遭った人が自分を責めてしまう心情
前田 映画の話に戻りますが、そしてとても繊細なことを伺いますが、パンフレットにやや大きめの文字で「1975年3月27日(木)14:00 晴れ」と書かれています。忌まわしい事件の日時や天気まで正確に覚えているものなんですね。なんだかあの日付は胸に迫ってきます。
三島 覚えているものですよ。私を襲った加害者越しに見えた空の色まで強く記憶に残っているんです。
私は大学の専攻が心理学だったんですが、性暴力に遭った場合、周りの人にできることの一つは傾聴と言われています。つまりよく話を「聞く」ことなんですが、「話せる」というのも大きいですよね。映画の中でれいこが「聞けよ」というところがあり、そこが気持ちよかったと言ってくれた方がいました。ひとつ何かがかわった瞬間かと思います。
映画では、第1章のマキと第2章の誠は、自分の気持ちを誰にも話していません。第3章のれいこだけが、トトという行きずりの男に話せた。それがれいこの何かが変化した瞬間であるとは思います。
私も先ほどお話ししたとおり、自分が被害に遭った現場をたまたま見てしまったとき、咄嗟にプロデューサーに話せたことで、いつか表現しなければいけないと思いながらもなかなかできなかったこの性暴力、傷といったものと非常に客観的に向き合うことができたのは確かです。
「れいこ」というのは、1人の人間のことでもあり、傷や罪や赦しや生の象徴でもあります。自分が監督として生きる限りは、自分も含む人間の傷や罪を見つめることは私の仕事だし、そうあることが映画監督でもあるのかなと考えています。
実は、何より見つめたかったのは、自分の罪の意識というものだったんです。
前田 れいこの「なんで私が罪を感じなきゃいけないんだよ」というセリフがありますね。
三島 はい。身体を傷つけられた場合の傷はわかりやすく、誰もが切り付けた人が悪いと思うのに、心の傷や性の傷は、被害者なのに罪の意識を感じる。
私自身、6歳で何もわからないまま被害に遭ったのに、母に悲しい思いをさせてしまったとか、父を落胆させてしまったとか、私があの道を通らなければよかった、友だちの家に遊びに行かなければよかったと、自分を責めました。同時に、これはバレてはいけないことだという思いも強く持ったんです。