1ページ目から読む
4/5ページ目
1964年東京五輪の聖火台を作った“工業の町”「川口」の“イケイケだった時代”
駅が開業すると、旧宿場を中心とした市街地も駅前に向けて拡大してゆく。鋳物業以外の工場の進出もあり、たとえば1924年には線路沿いに日本麦酒の工場(のちのサッポロビール)ができている。また、1930年代にも日本デイゼルや日本ピストンリングなどの工場も生まれた。それより少し前の1920年には、駅西側に隣接して商工省の燃料研究所も設けられた。まさに、荒川を挟んで東京と隣り合う、ザ・工業都市川口だった。
戦後になってもそうした傾向は変わらない。東京オリンピック(もちろん1964のほう)の聖火台を作ったのは川口だった、というのは有名なエピソード。1962年には川口を舞台にした吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』が公開されているが、まさに大都会・東京と隣り合いつつも、いささか様相を異にする工業の町としての川口が描かれている。
ちなみに、この映画には吉永小百合演じる石黒ジュンの父親が鋳物工場を解雇されて飲み歩き、傷病手当をオートレースですってしまうというエピソードがある。川口のオートレース場は1952年に開設された。1954年には隣接する戸田の町に戸田競艇場もできている。中小の町工場がひしめく川口は、工業都市でありつつ労働者の町でもあった。
彼らの憩いの場としてオートレース場や競艇場ができて、川口駅のひとつ北の西川口駅はそのアクセス駅として飲食店や風俗店などが現れたという。それが1980年代以降変質して風俗街になり、“浄化作戦”を経てチャイナタウン、そしていまでは多国籍エリアと化している。工業都市・川口がもたらした町の一側面である。