1ページ目から読む
3/5ページ目

タワマン群ができる前の「川口」には何があった?

 実は、川口駅前から10分ほど歩いた一帯が、川口の町のもともとの中心だった。

 江戸時代までの川口は、荒川沿いの日光御成道の宿場町だった。日光御成道は、本郷追分で中山道と分かれて赤羽(岩淵宿)などを経て荒川を渡る街道だ。五街道という主要街道からは外れていたが、それでも幕末の川口宿には12軒の旅籠があって、1400人くらいが暮らしていたという。だからそこそこ規模の大きな宿場町だったのだ。

 そして、その頃の川口は大きな産業も得ていた。鋳物である。

ADVERTISEMENT

 
 

 川口の鋳物製造は、古くは中世から始まっていたというが、本格化したのは江戸時代になってから。荒川沿いということで、原料の砂や粘土が豊富、それでいて荒川の舟運にも恵まれ、日光御成道を辿れば大消費地の江戸がすぐそこだ。

 江戸時代に盛んに製造されていた鋳物は鍋や釜。江戸の人口が急増するに従って需要も伸び、鋳物製造の町としての川口にも繁栄がもたらされたのだろう。ちなみに、幕末には砲弾や銃弾の製造も担っていたという。

線路が通ってから駅ができるまで30年…この町におきた“大変革”

 そして、明治に入るとそこに外国の技術も導入されて、極めて小規模な鍋釜製造から飛躍してゆく。日本の工業全体が近代化してゆく時代にあって、鋳物、つまり金属加工の町であった川口は一気に工業都市に育っていったのだ。

 川口駅が開業したのは、1910年のことだ。この場所に線路が通ったのは1883年だから、30年ほどは駅に恵まれなかった。つまり、明治の初めは宿場町も線路から離れていて、駅を置くほどではない小さな町だった。

 それが30年の間に工業都市として大いに成長したということだろう。もちろん人口も増えて、1933年には町から市に。最初は川口町駅として開業していた駅も川口駅に改称している。