その後も小田さんとの縁は続いた。還暦時や東日本大震災直後のツアーでは初日から取材した。小田さんは舞台上でどんどん自然体になっていった。ツアーは苦手と聞いていたが、待っている人たちに、自分から〈会いに行く〉ようになっていた。
オフコースの挫折
小田和正さんについて本を書くことになったのは2020年初め。突破口はさらなる取材あるのみだった。小田さんご自身はもとより、ご親族からご友人、音楽関係者やスタッフ、元オフコースのメンバー……。前著『孤独な祝祭 佐々木忠次 バレエとオペラで世界と闘った日本人』(文藝春秋)でもそうだったが、雑誌取材では見えない世界が次々と現れてくる。小田さんの場合、その一つはオフコースでの挫折だった。わかっていたようで、わかっていなかった。
オフコース時代初期の売れなかったころの惨めさについては、小田さんは以前から饒舌だった。しかしそれ以降については、取材当初、多くを語りたがらなかった。
1970年、オフコースを一緒に始めた鈴木康博さんは、1982年脱退した。中学からの友人で、理想に燃える二人組だった。1976年以降、ロック志向の若い三人を招き入れた時、ギャラは5等分。そんな二人だった。その後ヒット曲を連発、しかし前代未聞といわれた日本武道館10日間公演の直後、鈴木さんは去った。
以降、40年間、二人は会っていない。喧嘩をしたわけではない。喧嘩ができる二人なら、良かったのかもしれない。いまでは誰もが知る「言葉にできない」は、この時、小田さんが作った歌だが、小田さんは涙で歌えず、その後、長く封印された。
その6年半後、オフコースは解散した。
小田和正が「どうしても削ってほしい」と言った一文
今回、本のあとがきのなかで、私は当初、こんな文章を書いた。
それにしても、オフコースは、輝かしい歴史と哀しい歴史を併せ持つバンドだったと思う。最初から最後まで駆け抜けたのは、小田和正ただ一人である。
しかし、小田さんは、この「最初から最後まで駆け抜けたのは、小田和正ただ一人である」の一文を、どうしても削ってほしいと言った。
小田さんには、今回、ゲラを3回読んでいただいた。ほとんど直しはなく、ただ、誰かが誰かを強く批判めいて語るコメントについてだけ、できるだけ配慮してほしいと控え目に言った。そんななかで、全くの事実である先の一文を削ってほしいとの言葉は、それが筆者のあとがきであることも含め、当初、その意図がわからず、不思議に感じたものだった。1970年から1989年まで、オフコースの全期間を最初から最後まで駆け抜けたのは、正真正銘、小田和正さん一人だからである。
なぜなのか。