この状況について、
《ライバル紙の北陸中日新聞の関係者は「北國は杜撰な県政を容認、放置してきた」と、県政べったりの地元メディアの弊害を指摘する。》
との声を載せていた。能登半島地震発生後、あの北國が現職知事を批判するのかと驚かれているが、被災地の住民のみならず、県民全体に、県政や地元メディアへの鬱屈がたまり、北國新聞としても無視できなくなったのだろうとも書いている。
これらを読むと北國新聞そのものが長年にわたって権力者側であり続けたことがわかる。皮肉にも「森喜朗氏の影響力が落ちたから馳知事に小言を言い始めた」という見立てを北國側が否定する気持ちもわかる。ずっと前から「県政べったり」ならば。
違和感の正体がわかった
そういえば昨年11月に馳知事が東京五輪招致で「機密費でIOC委員に贈答品」と発言した際に北國新聞は1面コラムで、
《「機密」を口にしたら身も蓋もない。触れない方がいいことには触らない。伏せておくことは、しゃべらない。それで世の中は成り立つ。》(11月22日)
と書いていた。私は叱り方の角度に驚いたが、今ならこの違和感の最大の正体がわかる。それは「権力者同士の視点であること」だ。少なくともメディア側の叱り方ではない。そう考えると馳知事が他のメディアに圧力をかけても北國新聞がおとなしかったのは「自分も権力者側」だったから、という見方もできないか。地元紙はどこを向き、誰に寄り添うのか。あらためて考えさせられる。
それもこれも「神は細部に宿る」という言葉どおり、北國新聞が身をもって教えてくれたからだ。「紙は細部」に宿るようで、ありがとうございました。