能登半島地震で壊滅的な打撃を受けた石川県輪島市。自宅が潰れ、妻の兄も亡くなるなど、壮絶な経験をした漁師、橋本拓栄さん(51)は心が折れそうになった。

 だが、落胆してはいられなかった。「海士(あま)町」の自治会長だったからだ。

 海士町は極めて特殊な“集落”だ。輪島にありながらも、別の文化を持っている。漁を生業とする人々が定着してから375年もの間、まるで独立国であるかのような自治を確立して、独自の言葉などを受け継いできたのだ。このような“集落”は全国にないだろう。

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 だが、海士町の被害は甚大だった。多くの家が損壊。輪島港も隆起して、生計を支えてきた漁業ができなくなった。避難で住民はバラバラになっている。どうやって海士町を存続、再興させられるか。

港を出られなくなった漁船がびっしり並ぶ(輪島港) ©葉上太郎

 橋本さんに重責がのしかかる。

漁船の入港は能登半島で随一の隻数

 輪島市の中心部には、河原田川が流れている。

 市街地は両岸に拓けていて、東側が河井町だ。多くの商店が連なり、朝市も開かれていた。能登半島地震で約200棟が燃えるという大規模火災は、この町で起きた。

 川を渡って西側には、古い街並みを残す鳳至(ふげし)町がある。そこから竜ケ崎灯台がある突端に向かって海士町。さらには輪島崎(わじまざき)町と続く。

 輪島港は海士町と輪島崎町に面して建設されていて、200隻の漁船がひしめく。漁船の入港は能登半島で随一の隻数を誇り、係留される漁船の混雑率も日本有数だ。特に海士町側では漁船が多すぎて全てを接岸させられず、漁船の後ろに別の漁船を係留する「二重係船」が常態化している。

漁の時期に合わせて島渡り

 海士町は古くからの漁師町だ。

 歴史をさかのぼると、永禄年間(1588~70年)に筑前国(現在の福岡県)鐘ケ崎から海士又兵衛が男女12人を率いて能登に漂着し、漁を始めたという伝承がある。海士又兵衛は加賀藩主にアワビを献上し、慶安2(1649)年に輪島の土地を拝領して、永住したとされている。

 これが海士町のルーツだ。今から375年前の出来事である。

 海士町は漁船漁業や海女漁を主力にしてきたが、漁場ははるか沖合だ。

 漁師はどこで漁をしてもいいわけではない。漁業権を持つ海域でしか操業できない。

 海士町の場合、漁業権が設定されているのは輪島から48kmも離れた舳倉(へぐら)島や、その途中にある七ツ島の周辺などだ。

 日本海の真っ只中にある舳倉島は、歩いて1時間ほどで周回できる広さしかない。輪島からは1日に1往復の定期船で結ばれていた。近年は300種を超える渡り鳥の中継地として、バードウオッチングの人気スポットにもなっていた。

舳倉島と結んでいた定期船「希海(のぞみ)」(輪島港) ©葉上太郎

 舳倉島は海士町の「直轄地」のような存在で、他にあまり例のない住み方がなされてきた。