『顔に取り憑かれた脳』(中野珠実 著)講談社現代新書

 この2月に行われた“世界最大の直接選挙”といわれるインドネシアの大統領選挙で、亡くなったスハルト元大統領のフェイク動画が制作された。いたずらではなく、公式な選挙活動として、候補者の陣営が作成したそうだ。インドネシア政府は選挙運動でのAI使用を禁止しないとのことである。本物そっくりに合成された候補者(中身は支持団体の担当者)と有権者がモニター越しに会話するニュース映像には、軽いショックを受けた。インターネットを介して世界に拡散される捏造コンテンツをどう扱うかが議論されている昨今、フェイク動画は選挙を攪乱するために作られるという先入観がある。まさか、公式に作成するとは思いもしなかったのだ。インドネシアの有権者数は2億人以上で、その半分は40歳以下という。その圧倒的な数と若者中心の社会を思うと、「フェイク動画イコール悪」という決めつけは、欧米中心の発想なのかもしれないと考えた。フェイク動画を悪とするのは、年寄りの多い国の古い価値観なのではなかろうか。

 顔をめぐる国際状況を考えていた中で、本書は出版された。認知科学者として活躍する著者によるもので、私も班長を務めた「顔認知」の大型予算のチームでも頭角を現していたが、あれから10年、バリバリの現役である。そんな目線から、脳の研究の方法について、わかりやすくまとめている。フェイク動画の技術の進化についても詳しい。蔓延しているフェイク動画の作り方を、これほどわかりやすく書いたものはないだろう。顔をめぐる最新の研究と技術は、脳が顔をどのように計算しているのかということから、架空の顔を作りだす技術へと進んでいるのである。

 読み物として面白かったのは、人にとって自分の顔がいかに特殊かということだ。なぜ人は化粧をし、画像加工や整形などで自分の顔をいじるのか。その謎が、脳の報酬系から解き明かされる。自分の顔と似た人を信頼してしまうことや、SNS依存と自意識との関連などなど、著者が行ってきた研究から最新の知識を知ることができる。

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 本書は、「自分に取り憑かれた脳」の話ともいえる。自分好きは若い世代の特性かもとも思うと(美魔女の存在を考えると、違うかもしれないが)、世代によって読後の感想は異なるのかもしれない。それも面白い。冒頭のインドネシアの選挙もそうだが、顔をめぐるテクノロジーが進む世界の中で、世代や文化による受け止め方や倫理観の違いはさらに浮き彫りになるのかもしれない。テクノロジーの次に、それを受けとめる社会を考える必要があるのだろう。

 さいごに猫派の筆者として、困った表情ができるようになった犬の進化について新たな知見を得た。そのお返しに、猫のツンデレが進化した事実を見つけ出してみたいと思う。

なかのたまみ/1976年東京都生まれ。2023年より大阪大学大学院情報科学研究科教授。情報通信研究機構(NICT)・脳情報通信融合研究センター(CiNet)主任研究員。身体・脳・社会の相互作用から生まれる心の仕組みに関する研究を行っている。
 

やまぐちまさみ/中央大学文学部教授。専門は認知科学(乳児の視覚)。日本顔学会理事。著書に『自分の顔が好きですか?』など。