津波は海が直接陸に上がるだけでなく、川を逆流して堤防を越える。猶予は「10分あるかないかだ」。日本海の津波は来襲が早い。輪島の漁師の常識だった。
妻が「大津波警報が出た」と言う。
もはや、ゆっくり避難している暇はなかった。
市街地で火災が発生
妻と母親は歩いて高台を目指す。上浜さんは漁に出る時の上着を羽織り、軽トラックで小学校のグラウンドを目指した。津波の緊急避難場所になっていたからだ。しかし、倒壊家屋は窓から見えた2軒どころではなく、道路をふさいで通れなくなった箇所がいくつもあった。遠回りして何とかグラウンドにたどり着くと、車を乗り捨て、歩いて高台へ急いだ。
そこには高台に住む人々の集会所があり、「屋内外を含めて400~500人いたのではないでしょうか。人がいっぱいで奥の方には行けないほどでした」と上浜さんは語る。
間もなく日が暮れた。消防のサイレンが鳴り始める。市街地で火災が起きたのだ。高台からも煙が見え、燃えているのは自宅の方だと分かった。上浜さんは山道を下りて様子を見に行く。自宅が建っている川の反対側が激しく燃えていた。
それから小学校へ戻り、避難所となった体育館へ入った。
館内には体育の授業で使うマットが20枚ほど敷いてあったが、これを除いては冷たい板張りだった。冬の一番寒い時期なのに凍えてしまいそうになる。毛布もない。
妻には「危ないから止めた方がいい」と言われたが、自宅に毛布を取りに帰った。街は家屋の倒壊と火事で酷いありさまだったが、築15年しか経っていない自宅は倒壊を免れていた。物が散乱した中から毛布を引っ張り出して、体育館へ戻る。
避難所暮らしで一番困ったこと
その夜は眠れなかった。引っ切りなしに余震が襲う。火災はどんどん燃え広がって、体育館からも真っ赤になっているのが分かった。「バーン、バーンと何かが爆発する音がずっと聞こえました」。
これ以降、体育館での避難所暮らしが始まった。
小学校には極めて多くの人が身を寄せた。上浜さんが数えたところ、グラウンドで車中泊していた人なども含めると、最大600人ほどがいた。
「体育館は足の踏み場もなく、横になったら隣の人の息が掛かるほどでした」
小学校も被害がなかったわけではない。液状化の影響か、3階建ての校舍が沈下していた。体育館の渡り廊下も余震でドーンと音を立てて落下した。
「水が一番困った」と上浜さんは言う。
救援物資はなかなか届かなかった。