では、どうやって在宅避難している人を把握し、物資を届けるなどしたらいいのか。
上浜さんは輪島市にありながらも、375年間も独自の文化を維持してきた漁師町「海士(あま)町」の前自治会長だ。海士町の人々の間には閉鎖的と言われるほど濃いつながりがあり、被災後も誰がどこにいるかが噂のようにして広がって、だいたいの所在は把握できた。日頃の人間関係があってこその話だろう。
住民の動向を把握する余裕はなく…
海士町の住民が江戸時代から住んできたのは、加賀藩主から拝領した狭い土地だ。各戸の敷地面積が10坪(33平方m)ほどしかなく、自宅には駐車場も作れない。このため自治会に加入したまま、エリア外に家を建てる人が増えた。上浜さんもそのうちの一人だった。
そうなると不思議な現象が生じる。ほうぼうで暮らす海士町の自治会員の動向は手に取るように分かるのに、実際に住んでいる地区では一般の市民程度にしか近所付き合いがなく、隣近所のことしか分からなくなる。誰がどこに避難しているかなど知る余地もなかった。
こうした市街地では地区の区長ら地域組織の役員が自宅避難者を調べるべきなのかもしれない。
だが、これほどの大災害になると無理だった。上浜さんも「私が住んでいる地区の役員は、90歳を超えた親を金沢に避難させるなどしていたので、住民の動向を把握する余裕などありませんでした」と話す。
親子連れに声を掛けたら不審者扱いされる始末
では、外部からの支援でどうにかできないか。当初はこれも難しかった。
今回の地震は半島の先端部ほど被害が酷く、奥能登に向かう道路が通れなくなった。被災範囲も広くて半島には泊まれる施設がない。外からの支援はなかなか届かなかったので、山間部や海岸沿いで孤立集落が多数出ただけでなく、市街地も半ば孤立したようなものだった。あまりの惨状に市役所や町役場も機能しない。
初期には誰も在宅避難者を把握できなかったのである。
上浜さんは自宅の近くで親子連れがいるのを見つけ、「パンを食べますか」と声を掛けたことがある。体育館で余ったパンがあれば分けようと考えたのだ。しかし、「あなたは誰ですか」と不審者扱いされる始末だった。市街地ならではの出来事だろう。ある日、80歳ぐらいの男性が避難所の体育館に現れた。「『炊き出しが行われている』という噂を耳にして、半日ほど歩いて来たそうです。残念なことに、その日は炊き出しがありませんでした。『一緒に体育館に避難しませんか』と誘いたかったのですが、避難者でいっぱいでスペースがありません。かろうじて水とパンは持ち帰ってもらえましたが、あまりに気の毒でした」と上浜さんは目を伏せる。