「能登には縁もゆかりもないのに、誰もが一生懸命に手伝ってくれました。本当にありがたくて、涙が出ました。逆に自分の小ささが分かるような気がしました」としみじみ語る。
帰省中に被災した若手が運営スタッフとして加入
上浜さんが体育館に寝泊まりしたのは5日ほどだった。混乱を窮めた5日間だったろう。
85歳の母親はもともと足が悪かったのに、避難所では動く機会が減ったせいか、トイレに歩いて行くにも転倒するようになった。「このままでは健康を害してしまう」と考え、上浜さん一家は倒壊を免れた家に戻った。
上下水道は使えない。イスと簡易トイレを加工して、洋式便所風なものを手作りした。熟練の漁師にとって、このような加工はお手の物だ。工具は船に積んでいた。
在宅避難に移ると、母親は転倒しないようになっていった。
その後も上浜さんは運営スタッフとして避難所通いを続けた。
未明に起きると体育館へ行き、当番をしている人と交代して眠らせるなどした。
日にちが経過すると、運営スタッフになってくれる人が増えた。
「金沢などから帰省して被災した若手も加わりました。若い人がてきぱき作業をしてくれるようになり、避難所の運営は軌道に乗っていきました」
そうした状況を見届けて、上浜さんは2次避難所に移ろうと決めた。
睡眠不足と過労で顔面麻痺を発症
輪島市の山間部には地震による土砂崩れで天然のダムがいくつもできていることが分かり、決壊すれば下流に被害を及ぼしかねないとされていた。上浜さんの家は河原田川のすぐそばにあり、しかも川がカーブしている場所なので危険だった。母親の健康状態が心配な面もあった。坂口茂・輪島市長も遠隔地への2次避難を呼びかけていた。このため、まずは1・5次避難所の「いしかわ総合スポーツセンター」(金沢市)に2泊して、割り当てられた県南部の加賀市の旅館に向かうことにした。
1月11日、輪島市を乗用車で離れた。道中にコーヒーを飲んでいると、なぜか口の端から漏れて仕方がない。右目も閉じなくなっていて、眼球が乾燥してしまう。
顔面がマヒしていたのだ。
発災当初は睡眠を取る余裕もなかった。避難所暮らしが始まって間もなくは1日に1~2時間、最後まで2~3時間しか寝ない日が続いた。
気が張っていて自覚はなかったが、体が悲鳴を上げていたのである。
2次避難所に到着すると、病院通いが始まった。