上浜さん宅の近所では、90歳ぐらいの男性が避難所に行かずに、独りで在宅避難を続けていた。上浜さんが会った時、目の周囲を大きく腫らしていて、「どうしたのか」と尋ねると、「アスファルトで転んだ」と答えた。
今回の地震では、激しい揺れでアスファルトが割れたり、左右からの圧力でアスファルトがカミソリのようにめくれ上がったりした。マンホールも至るところで隆起した。このため多くの自動車がパンクした。そうした場所で転倒したのだろうか。
この男性は診療も受けていなかったので、上浜さんは医療関係者につないだ。家では飲み水も尽きていたようで、避難所に届いていた中から分けた。
遠方から来たボランティアグループを「こき使う」
わずかながらも人手不足解消の役に立ったのは「禁」を犯した人々だった。
「避難所では当初、ボランティアは受け入れないと決められていました。が、物資を持って来た人を拒む理由はありません。ついでに避難所の運営を手伝ってくれる人もいて、言葉は悪いですが、こき使わせてもらいました」と上浜さんは話す。
最初に来たのは発災から2日目、首都圏の若者だった。上浜さんのことを「隊長」と呼んで懐いてきたが、突き放すようにして、こき使った。それだけ余裕がなかったのだ。
東京からトラックで物資を運んで来た20~30代の土木関係者6人ほどのグループもあった。物資を下ろした後、泊り込んで手伝った。
神戸からは「阪神・淡路大震災でお世話になったのに、居ても立ってもいられなかった」というグループが来た。幹部と子分がいるような感じの団体で、テントを張って自活しながら、避難者への炊き出しをした。不足している物がないか聞き取り、大型車で運び込むようなことまでした。その大型車が損壊した道路にはまって立ち往生し、物資だけワゴン車でピストン輸送していた。
内輪もめしてるところを『もめるなら帰れ』と一喝
韓流スターのような格好をした中国の人々も訪れた。ただし、被災地で働いてもらうにはふさわしくない格好だ。上浜さんらは「市役所に行って、指示を仰いでくれ」と伝えた。
こうして避難所となった小学校には、発災から1週間強で10グループほどが訪れたという。
多種多様な人だけに、使う側の力量も試された。上浜さんら存在感のある漁師がにらみを利かしていたので対処できた部分もあったのだろう。
「神戸から来たグループは、子分が手違いを犯したということで、幹部が叱りつけていました。そうした仲間うちのことは、私達には関係ありません。『もめるなら帰れ』と言いました」と上浜さんは話す。グループは態度を改めた。
上浜さんはそうして来てくれることが嬉しかった。
握手で別れる時に、「次は漁の話を聞かせてください」と言う人もいた。