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 対してテレビは、元気で明るくて、早い。それが合わなくてなかなかお仕事をできなかったというか。

――合わないですか。

田口 合わないですねえ。僕は元気じゃないし、明るくないし、遅いですから。でもなんとかやってこれたということ、ですよね。

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大学4年間はずっと1年生のままだった

――遅いといえば、大学の4年間、ご自分の意志で一度も進級されなかったとか。

田口 はい、意図的にずっと1年生だったというやつですね(笑)。

 高校生のときに、唐十郎さんの「状況劇場」の芝居を観て、こんな自由でオルタナティブな生き方をしてもいいんだって衝撃を受けて。そこからパンクムーブメントが入ってきて、技術とかルックスとか、そういうものを一切なくして、「やる気と発想さえあれば音は出せるんだ」っていう精神が僕のなかで合体して、こういう人生に。

 大学には4年間行きましたけど、1年生のまま留年し続けて、そのまま流れ込むようにアングラ演劇やバンドを始められたのが、80年代から90年代。そういう時代に青春期を過ごせたことは、ラッキーだったと思います。

 

エロ漫画でお金を稼いで、バンドと演劇につぎこむ「負の自転車操業」

――その後、漫画もお描きになって。

田口 とりあえず手に職をということで、漫画を読むのと絵を描くのが好きだったので、石ノ森章太郎さんの『マンガ家入門』を一冊買って熟読しまして、ケント紙に線を引いて、Gペンを使って、学習しながらやってました。

 最初は私小説風の漫画を描いてたんですけど、官能劇画っていうんですかね。「エッチな漫画だったらいいよ」といわれて、描いて持っていったらすぐに採用されました。そのときの編集者が、作家の亀和田武さんです。

 そこから、エロ漫画でお金を稼いで、インディーズのバンドとアングラ演劇の活動につぎこむという、「負の自転車操業」がはじまったわけですよね。僕の人生の(笑)。

 

――そこから抜けたタイミングは?

田口 90年代に入って、アングラや小劇場の人たちが、ちゃんとギャラが発生する作品に呼ばれるようになったことが大きかったですね。

 あと、インディーズバンドがメジャーデビューするという時代の流れもあって、僕らは自分たちで好きにやっていればいいやと思っていても、大人のほうが頭がいいから、若い息吹なんて簡単に摘まれちゃうわけですよ。僕らも最後はメジャーデビューしたんですけれども、「ここはストーンズが使ったスタジオだからさ」って言われただけで、もうめちゃめちゃめまいがしました(笑)。