高見沢が背負っていた「重責」
もっとも、最初のうちこそ3人で曲をつくっていたものの、気づけば曲づくりは高見沢の担当になっていた。これについて彼は後年、《ひとり大変な所を担う結果になってしまいましたけどね。ただその点は、僕の作る曲を信用してくれてると思ってますから……》と語っている(『週刊文春』1999年9月23日号)。とはいえ、ヒット曲がなかなか出なかったため、高見沢にはプレッシャーがのしかかることになる。
ビクターをやめてからのアルフィーは、同じ芸能事務所に所属するかまやつひろしや研ナオコらのバックバンドとしてツアーに同行したり、歌謡ショーなどで地方を回ったりしながら、自分たちの表現を磨く場としてライブハウスに出演を続けた。
ライブではどうしたらお客さんに楽しんでもらえるのかと考えた末、前半ではほかのバンドのモノマネやトークで笑いをとり、後半で真面目に演奏するという二部構成となる。客は最初は2~3人ほどだったのが、策が奏功して回を重ねるごとに増えていく。数年後には、渋谷のライブハウス「屋根裏」の全席が埋まり、ほかのところでも満員が珍しくなくなっていた。
そのころにはレコード会社からも改めて声がかかるようになったが、彼らは一度失敗しているので慎重だった。満を持してキャニオンレコード(現・ポニーキャニオン)から再デビューしたのは、ビクターをやめて約2年半を経た1979年だった。これを機に綴りも「ALFEE」に変える(「THE」がつくようになったのは1986年から)。
このころには、ライブでのファンの熱狂が凄まじくなっていた。それに合わせてもう少しリズミックな楽曲も取り入れようと、再デビュー後2枚目となるアルバム『讃集詩』(1980年)ではプロデューサーにキーボーディストの井上鑑を迎えた。高見沢はそれまでアコースティックにこだわり、ステージやレコーディングでもエレキギターを頑なに拒んできたが、このとき井上の勧めでエレキを弾くようになる。
待望のヒット曲が誕生
ライブでは、ドラマーがいないこともあり、アコースティックでやらざるをえなかった。しかし、これではレコードと音が違ってくるし、ファンのパワーにも対抗できないと、1982年に入るとついにドラムとキーボードを導入した。この年の夏、ある人の「アルフィーは室内音楽だよね」との言葉に反発したのを発端に、埼玉・所沢航空記念公園でグループ初の野外コンサートを開催する。
翌1983年8月には、日本武道館でコンサートを開催する。この時点でヒットらしいヒットはなかったが、武道館はそれまでアルフィーを支えてきたファンで超満員となり、“ヒット曲なしの武道館”と呼ばれた。同年6月にリリースした「メリーアン」がじわじわとヒットチャートで順位を上げていったのは、その直後のことであった。このヒットを機に、アルフィーはデビュー10年目にしてついにスターダムに躍り出る。