ただ、レコード会社の人からは、初めてのヒットを祝う席で「次の曲もヒットさせないと成功とは言えない」と発破をかけられたため、高見沢としては、続く「星空のディスタンス」(1984年)がヒットしたときのほうがうれしかったとか(『週刊現代』前掲号)。
一貫して変わらなかったもの
デビュー以来、アルフィーはいろんな音楽を取り入れてきたため、無節操だのポリシーがないだのと言われたりもしたという。それがいったん売れ出すと、一転して「幅広い音楽性」に変わった。そのなかで一貫して変わらなかったのがオーディエンスだったと、高見沢は言う。
《学園祭やライブハウスの時代からでも、やっぱり僕らを選んだ人間がいる。僕らの歌を見つけた奴がいる。それだけは事実ですからね。誰もいなかったらやっぱり駄目だったわけですから。だから、たとえお客さんが一人もいなくなっても僕たちは歌い続けますっていうのは噓ですよ。それは本当にいない状況で歌ったことがない人の言うことで、やっぱり一人もいなくなったら歌えないですよ。でも、僕らは必ずいましたから。しかも倍々ゲームじゃないけど増えるようになりましたから。気持ちのなかでもオーディエンスとのキャッチ・ボールを感じながら曲を作ってきたようなところはありますね》(『月刊カドカワ』1993年4月号)
ライブハウスからスタートしたステージも、どんどん規模を拡大していく。1985年には、1アーティストでは初めて横浜スタジアムで3日間のコンサートを成功させ、観客動員数日本一を達成。1986年の東京湾13号埋立地(現在の台場・青海地区)での10万人コンサート、翌1987年の静岡・日本平でのオールナイトコンサートも伝説に残る。1988年にオープンした東京ドームで、ミュージシャンとして初めてコンサートを行ったのも彼らだった。
「すべてはTHE ALFEEのため」
高見沢はアルフィーの“ビジュアル担当”との自覚から、プロとしてステージに立つ限り、衣装の力も借りて観客を夢の世界へ引きずり込まねばならないと常に考えてきた。ギターを弾く手にも観客の視線が集まっていると気づくと、ボリューム感のある指輪やブレスレットをたくさんつけ、爪にもネイルアートを施すようになる。もちろん、弾くときは邪魔でしょうがないが、《でも、はずしちゃダメなんです。平然と弾きこなす。困難を困難と見せずにこなしてこそ、これが高見沢だ! ということです》という(『婦人公論』2004年10月7日号)。
1990年代に入ると、高見沢はソロでも音楽活動を開始する。しかし、それも《同じメンバーで活動していると、どうしても甘えが出てくる。そんなとき、他のミュージシャンとセッションしたりすると、すごく刺激を受けるんです。だから、すべてはTHE ALFEEのため。新しい刺激を取り込んでいくため》であった(『週刊朝日』2015年7月24日号)。
近年は「髙見澤俊彦」名義で小説家としても活動する。そのデビュー作『音叉』は70年代の東京を舞台にした青春小説で、2017年より文藝春秋の小説誌『オール讀物』で連載された(翌年、単行本化)。さらに同誌で発表された『秘める恋、守る愛』(2020年)は大人の恋愛小説、続く『特撮家族』(2023年)はエンタメ全開の家族小説と、アルフィーの音楽と同様、いずれもまったく毛色が異なる。