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 また、この時期には各地で少女歌劇団が誕生しており、福井のだるま屋もそうした時流に乗ったのだろう。福井の駅前にほど近く、近代都市・福井のシンボルといったところか。

 電車通りからその南側の足羽川にかけての一帯も、駅前の商業ゾーンだ。アーケードの商店街もあれば、細い路地が入り組んだ飲み屋ゾーンもある。福井で唯一のテレクラ、などという看板を掲げている店もあった。歩いたのが平日の昼間だったという事情もあるだろうが、順化の歓楽街よりは人通りが目立つ。駅のすぐ近くという利便性から、こちらに歓楽街としての中心が移りつつあるのかもしれない。

 そんな繁華街の片隅にあるのが、柴田勝家が築いた北の庄城の跡だ。柴田勝家を祀る神社になっていて、柴田勝家の像が真ん中に。その脇には、お市の方と三姉妹の像もある。

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 信長の妹・お市の方は、はじめ浅井長政に嫁ぎ、3人の娘に恵まれた。いわゆる浅井三姉妹だ。浅井氏が滅ぼされたあとは三姉妹とともに柴田勝家に嫁ぎ、北の庄で暮らしている。柴田勝家が秀吉に滅ぼされると、三姉妹は……。このあたりのエピソードは、それこそ大河ドラマをはじめあちこちで描かれている戦国時代のいわば鉄板ネタである。

「震度7」が設定されたきっかけは福井にある

 1896年に開業した当時、駅前には百間堀と呼ばれる福井城のお堀が広がって、中心市街地からは隔てられていた福井駅。駅前広場の向こうを南北に走る通りは、そのお堀を埋め立ててできたものだ。

 お堀が埋められて道路になったおかげで、駅前のすぐ向こうに福井城という、つまりはお城と駅がほとんど隣接しているような町が形作られた。

 

 駅前から大名町までは歩いても10分とかからない。歓楽街の順化までも、15分足らず。お城の本丸の真ん中には、かつての城の役割をそのままに、福井県庁舎がそびえ立つ。なんだか無粋な気がしなくもないが、基本的な福井の町の形は、新たに駅ができて中心地が少しずつ駅前に移ってきていることを除くと、ほとんど近世から変わっていないのだろうか。

 しかし、福井の町の歩みは、それほど簡単なものではなかった。大戦末期には福井空襲で市街地が灰燼に帰し、その3年後には福井地震で3769人の命が失われている。

 福井地震は戦後の震災では東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ犠牲者を生んだ大震災だった。あまりの激震で、福井地震をきっかけに震度階級に「震度7」が設定されたほどだ。さらに同年には大洪水にも見舞われており、福井は1945~1948年のわずか3年ほどの間に幾度も悲劇的な災禍にまみれたのである。