関ケ原の戦い後には、徳川家康の次男・結城秀康が越前一国67万石を与えられ、新たに福井城を築いて城下町の整備を続けていった。以後、江戸時代を通じて福井は福井藩の中心として発展してゆく。近世から近代初期にかけて、福井は日本国内でも有数の大都市だったという。その痕跡は、いまでもあちこちに残っている。
福井城とそのお堀もそうだし、駅前の大通りや路面電車が走る通りがお城の西側を南北に走る国道旧8号(フェニックス通り)とぶつかる交差点の名は「大名町」。江戸時代、1万石以上の禄を得ていた上級藩士たちの屋敷が建ち並んでいたことから、大名町と呼ばれるようになったという。フェニックス通りも、かつては大名町通りと呼ばれていた。
大名町交差点は、いまも昔と変わらず福井の町の中心にあるようだ。駅前から西に向かう大通り・電車通りと旧国道8号が交わる五叉路。金融機関が大きな店を構えていて、旧国道8号沿いから福井城方面を中心に、一大シビックセンターが形成されている。
また、この旧国道8号からお城とは反対の西側の路地に入れば、「順化」と呼ばれる福井でいちばんと呼ばれる歓楽街。歓楽街をさらに西に抜ければ、旧北国街道がそのまま商店街になった呉服町商店街に出る。旧北国街道は順化の南側で足羽川を渡っているが、この橋は近世以来九十九橋と呼ばれた福井の中心部と郊外を隔てるものだった。
電車通りを歩いて駅前に戻る。繁華街の片隅に「日本史の超有名人」の気配が…
大名町の交差点に戻り、電車通りを歩いて駅前に戻ろう。電車通りと目抜き通りの中央大通りの間では、巨大なマンションの建設が進んでいる。新幹線開業に合わせ、福井の駅前も生まれ変わろうとしているのだろうか。そして、電車通り沿いはどちらかというと駅前の商業ゾーンとしての趣が強い。シンボルは、西武福井店である。
西武福井店は、1928年に「だるま屋」として開業した福井の地場の百貨店がはじまりだ。開業から3年後には少女歌劇もスタートしている。少女歌劇といったら宝塚歌劇団。この時期にはすでに宝塚歌劇団は人気を確かなものにしていた。