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南に向かって歩くと、川沿いに満開の桜並木が見えてきた。これは…

 南に向けて進むと、見事に咲き乱れる桜並木が見えてきた。村の真ん中を南北に流れる小さな小川、京坪川。その川沿いには桜の木が植えられていて、一角には親水公園も設けられている。まさに、舟橋村民憩いの場。村役場や村立の小学校、中学校などもこの川の周囲にあるから、村の中心というのはこのあたりになるのだろうか。

 

 京坪川は、村の北部を流れる白岩川の支流だ。これらの河川は、歴史的にも大きな役割を果たしてきた。富山平野の真ん中の舟橋村は、古くからの農村地帯。駅南東側にある仏生寺というエリアには仏生寺城が築かれて細川氏が治めていたという記録もある。

 ただ、基本的にはいまと変わらず田んぼが広がる村だった。江戸時代には前田氏加賀藩領となっている。そして、舟橋村一帯は白岩川や京坪川などを活かした舟運の要になっていたという。

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 明治のはじめには、「ばんどり騒動」という農民一揆の舞台にもなっている。駅の北側にある無量寺というお寺を根拠地にして、一帯の農民たちが年貢の減免を訴えたものだ。

 しかし、役場はそれを無視。農民たちは無量寺を出て滑川に向かい、竹槍や木の棒を武器に役人たちと戦ったのだとか。こうした一揆の舞台になったのも、舟橋村が舟運の要としての地位を確かなものにしていたからこそだ。

 その後も舟橋村は、ずっと変わらずに富山平野の農村として歴史を刻む。富山平野の中心部として都市化が進んだのは常願寺川を挟んだ向こうの富山市だ。それを横目で見ながら、舟橋村は近世以来の農村であり続けた。