映画監督をひどい言葉でこき下ろして…
――その時代、押井さんも撮られていたんですか?
金子 押井さんはゴダールの影響で、白黒の『屋上』という映画を撮った。屋上でただ単にしゃべっているという映画だったんです。
でも、すごい感心したのが、それから2年後の卒業制作で、16ミリで全部スチール構成の15分ぐらいの映画。鳥を飼っている女の人がいて、その鳥を逃がしたら戦闘機になって落ちてきたという。
――スチールだからできる内容ですね。スチール構成のシーンは金子さんの映画にもありましたけど(『宇能鴻一郎の濡れて打つ』と『みんなあげちゃう』)。
金子 そうですね。スチール構成というのは『仁義なき戦い』のテクニックで。
――押井さんはやっぱり『ラ・ジュテ』の影響ですかね。
金子 分からないけど、ロベール・ブレッソンとかの話はいろいろしてた。世界の巨匠、ならびに日本の映画監督たちを、映研の部室でこき下ろしてましたね(笑)。我々はすごい言葉でこき下ろしていて、その中で例外はロバート・アルドリッチとか深作欣二なんですよ。
今から思うと、監督をこき下ろすという心理って何なのかな。自分はそんなへまはしないぞというような感じなんじゃないかなと思うんです。
――当時プロを目指していたんですか?
金子 そうですね。プロを目指そうとしてました。
――そういう意識で、自分はこういうへまはしないぞと。
金子 そう。だんだん話しているうちに、自分は作家なんだという意識ができてきて。
日活だけがちゃんと助監督試験があった
金子 大学を卒業して日活の助監督試験に受かって助監督になった時は、降格したというイメージですね。
――降格。
金子 助監督になった最初からそういうイメージを持っていたんです。「ああ、自分は助監督なんだ」と。
監督になるために助監督になっているけど、なった状態が常に嫌だなという。降格した感じというのがあって。根拠なく、どの監督よりも自分のほうがうまいぞと思ってるんですよね(笑)。
――それはずっとそうだったんですか?
金子 ずっとというか、根底にあるんです。
――日活に就職しようと思ったのはどうしてですか?
金子 東宝とか松竹も試験を受けたんですけど、松竹は1,000人受けたらしくて全然駄目だったんです。東宝は指定校制度だったから、会社訪問した後に、「指定校なのでどなたか推薦者をお願いします」と言われて、丁寧に断られたという感じ。日活だけがちゃんと助監督試験というのがあったんですよ。
――8ミリで作家という意識も芽生えた後ですが、映画監督になる道は映画会社に入るしかないという思いだったんですか?