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 確かに話としてはつじつまが合いそうだが、情報源を考えれば、近所の人たちのうわさ話を基に、知り合いの刑事らから情報を断片的に仕入れ、後は記者が、読者にうけそうな「物語」に仕立てたと想像がつく。「読み物として面白ければいい」というのが当時の新聞の常識で、報道倫理の意識はほぼ皆無だった。

 それは大朝だけでなく、大毎も「かよわい女の大兇行 (いじ)められた嫁が憎い姑と幼い姪2人と さらにわが子3人を惨殺し 死兒を背負うて縊死す」という長い見出し。大阪時事の見出しも「嫁は晴着で死兒を背に縊死」だった。これに対し又新は「むごたらしい一家六人殺し 下手人らしい女房も縊死」の見出し。本文では「原因は家庭の不和かららしく想像される」としたものの、菊枝の犯行とは断定しなかった。

地元紙の神戸又新は第一報から抑えた報道だった

菊枝が泣いて実家に帰ったことも…

 大朝の記事には菊枝の父親の話がある。

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 菊枝の実父、同町鍛冶屋町、下津屋勝治(61)は龍野の脇坂藩士出身の古めかしい人で、いまは持病の闘病中、養鶏場を営みながら晩年を送っている。娘の凶行は夢かとばかり驚き、一時は病気が悪化して何も言えないようになったが、夜になって多少元気を回復し、記者に語った。

 

「菊枝は高等小学校の成績もよく、卒業後17歳の時から龍野の元殿様、脇坂子爵家へ小間使いとして2~3年奉公にやり、22歳で次夫と結婚しました。姑つねさんはなかなかしっかり者で、金銭のことといえば、銭一文だって菊枝の自由にさせず、菊枝は嫁入りの時にこしらえた着物を縫い直して着ているくらいでした。菊枝もあまり虐待されるので、時々いたたまれなくなって泣いて帰ってきたこともあります。しかし、いったん嫁に入ったら、どんなつらいことがあっても、離縁されてこの家の敷居をまたぐことはできないと言い渡しておいたので……」

 

 いまさらながら、あまりにかたくなだった自分の態度を後悔しているようだった。

 この記事の小見出しは「『處(処)遇に泣いて歸(帰)ったが離縁を許さなんだ それが悲劇のもと』と菊江の父泣いて語る」。ほかに大朝の記事にあったのは――。