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「母を殺しました、わたしも死にます」菊枝の遺書に書かれていたのは…

 わたしは母を殺しました、わたしも死にます、基一郎と妙子は立派に育てゝ下さい先だつ不幸は不幸なものと思つて許してくださいわたしの衣装外持物全部はとくにやつて下さい、不幸な姉をもつたと諦めて下さい

次夫様、下津屋両親様

その他皆々様

※原文のまま。当時は新聞記事も含めて句点(。)を使う習慣がなく、読点(、)を入れないこともあった
※「とく」=菊枝の妹

 大朝は「いつもは細字できれいに書くのに、さすがに心が落ち着かなかったものか、荒っぽい走り書きで2尺(約60センチ)ばかりの長さ」と記述。巻紙に墨で書かれていたという。警察・検察の調べの結果として「凶行があまりに残虐を極め、女1人でできるか否か、疑問視されていた点も、遺書が菊枝の筆跡に相違ないことが知れたので、ほかに共犯はないことが判明」と書いた。

 しかし、遺書を読んだだけでも、既に死んでいる基一郎と妙子の今後を言い残しているのはおかしいと気づくが、大朝は遺書を書いた後に「この世に残していくふびんさを思って」殺したとした。

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検事は「菊枝1人で計画して遂行した」と説明

 同紙によれば、現場を踏んだ川又検事は「全く菊枝1人で計画して、女の一念で貫徹しようとやった仕業。夫の次夫は全く関係していない」と言明。菊枝について「武士の娘として、昔赤穂浪士が預けられたという殿様の子孫の脇坂子爵邸に女中奉公していただけあって、チャンと自分1人の腹の中で計画して、時期を待って遂行した大胆さに驚く」と述べている。

 龍野藩脇坂家は「忠臣蔵」で刃傷事件後の赤穂城明け渡しを担当した。検事も記者もそれを勘違いしているし、その後の事件の推移を見ると、この検事の発言は軽率だった。

 こうして、主に次夫の供述に基づいた「姑との争いが発端で嫁が起こした残虐事件」という構図が定着した。18日付大毎朝刊では医学者・評論家の小酒井不木が「外国では嫁いじめはないので、こうした凶行もない。日本の伝統的な家族制度の犠牲者だ」、神戸女子神學院の小田やす子女史は「菊枝さんの実父のいわゆる古武士的教養が災いしたのではないかと思います」、作家の武者小路実篤は「弱い女が身動きができないほど追い詰められての最後の行為だった」とそれぞれ語った。

志賀直哉らと雑誌「白樺」を創刊するなどした作家・武者小路実篤も事件について語った(国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

 同じ日付の大朝は識者談話と併せて「體驗(体験)ある人々の告白を募集いたします」という案内を掲載。大毎は18日付夕刊(17日発行)から「悲劇 6人を殺した嫁の話」の連載を始めた。大朝も連載記事を載せ、遅れて神戸新聞も「彼女が夜叉になるまで」を連載した。

 そうした事件の見方に疑問を投げ掛けたのは又新。

各紙が菊枝の犯行だと断定して報じる中で、初めて「疑惑の眼は次夫に」向けられた(神戸又新より)

 18日付朝刊で事件の全体像を報じる中で記事に書かれたのは、「疑惑の眼は次夫に」――。