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〈1.菊枝は犯行の前日、雇い人の1人に五寸釘の見本を示して、「こんな釘を買ってきてくれ」と言い、雇い人が南隣の金物店で10銭で五寸釘15本を買ってきた

2.太蔵の長男・基夫は工学士で日本電気の技師として東京に住んでいたが、関東大震災で死亡。朝子と綾子は先妻との間の子で、基夫の死後、後妻くら子とともに龍野の高見家に引き取られた。つねは菊枝を嫌って、くら子を次夫と結婚させようとしたが、くら子はそれを断って実家へ帰った

3.高見家は龍野町の目抜きの場所にあり、付近には商店が立ち並んでいる。現場は同家の奥西側の縁側に沿った6畳間

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4.検視の結果、菊枝の懐中から1通の遺書が発見されたが、姑を恨む悲痛な文句で、惨劇を生んだ恐ろしい女の一念がつづられていた(具体的な内容の記述はない)〉

代々続く老舗の麹屋だった高見家

  龍野は兵庫県南西部にあり、江戸時代は龍野藩脇坂家5万3000石の城下町で「播磨の小京都」と呼ばれた。付近で良質の小麦、大豆が採れたうえ、井戸水に恵まれ、近くの赤穂の塩も手に入ったことから醤油とそうめんの生産で知られた。特に16世紀に始まったとされる「龍野醤油」は、麹から作った甘酒を入れた「淡口醤油」として全国的に有名だ。

甘酒麹を仕込む様子。昭和40年ごろの写真(『目で見る龍野、揖保、宍粟の100年』より)

 19日付(18日発行)大朝夕刊によれば、屋号「半田屋」の高見家は十数代続く町の旧家。代々麹屋を営み、醤油醸造業の多い龍野町で3軒しかないうちの有力な1軒だった。

 つねの言動について、大毎の第一報は「二萬円の遺産欲しさに 亡き長男の妻を引取り 姑はきくゑを追ひ(い)出さ(そ)うとした」の小見出しで、基夫の妻と2人の子どもが遺産2万円(現在の約3300万円)を持って来たので、つねはその財産に目をつけた、と書いている。

 大朝の第一報は「大惨劇の家と人々」の説明で高見宅の外観と菊枝、つね、次夫らの写真を掲載。大毎は菊枝が赤ん坊の基一郎を抱いて頬ずりしている写真を載せているのが目を引く。

菊枝と、菊枝と次夫の間に生まれた長男・基一郎のほほえましい写真(大阪毎日より)

 続報の5月18日付(17日発行)夕刊で大朝、大毎、大阪時事はそろって菊枝の「遺書」の内容を掲載した。それぞれ微妙な違いがあるので、大朝を紹介する。