岐阜市の歓楽街、柳ヶ瀬で最後まで営業を続けたキャバレー「ムーランルージュ」。2020年に閉店してしまった同店だが、この度運良く知人の紹介で内部を探索させてもらう機会を得た。

 当時の様子がそのまま残ったような姿には思わず興奮。大満足しながら帰路についたのだった……が、落ち着くにつれ、さらにムーランルージュのことが気になってきた。いったいどんなお店だったのか。そして、街にはどのような歴史があるのか。再び柳ヶ瀬を訪れて聞き込みをしていく。

ムーランルージュの外観

横丁で唯一営業しているスナックへ…

 ここで、まずは簡単に柳ヶ瀬のことをおさらいしておきたい。

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 柳ヶ瀬の起源は明治時代に開設され、岐阜市制の礎ともなった金津遊郭。戦後は、昼は劇場などの娯楽と商店街として、夜は歓楽街として生まれ変わった街だ。発展の大きな理由は同様に焼け野原となった岐阜駅前に形成されていた繊維問屋街。そこでの莫大な利益が柳ヶ瀬へと流入してくるかっこうで、街は多くの人でごった返すようになった。1966年に発売された美川憲一さんの「柳ヶ瀬ブルース」は120万枚を超える大ヒットを記録するなど、柳ヶ瀬が名の知れた歓楽街だったことがわかる。しかし、その頃をピークに、柳ヶ瀬の繁栄に陰りが見えはじめる。

スタープレイス柳ヶ瀬商店街

 国内の繊維産業の衰退の影響が柳ヶ瀬にも如実に現れたのだ。

 また、マイカーの普及によって郊外の大型ショッピングモールに人流が移ったり、2005年に路面電車が廃止されたことも一因だろう。そして、決定打となったのが地場経済の崩壊が進むなか、2012年の岐阜国体に先立って行われた、性風俗店を一掃する浄化作戦。夜の顔である歓楽街の取り締まりによって来訪者が減少し、それが昼の顔である商店街にも大きな打撃を与えたのだ。以降、大型店も次々と消えてゆき、最後に残った岐阜高島屋も、2024年7月での撤退を発表している。

 そんな街の興隆から衰亡までを見守ってきたのがムーランルージュといえるだろう。

ムーランルージュ受付

 当時を知る人へ話を聞くため、私は柳ヶ瀬のスナックに向かった。ムーランルージュのすぐ近くにある、柳ヶ瀬センターという横丁で唯一営業しているスナックいずみに入店する。

柳ヶ瀬センター。かつては20以上のスナックが軒を連ねていた

 スナックを一人で切り盛りするいずみさん(72歳)は、この道50年のベテランだ。21歳の時、退屈だった銀行員を辞めてこの世界に入った。31歳から51歳までの20年間、ムーランルージュに勤務していたという。