山奥に赤ちゃんを抱いた女性がいるはずないのに
幻覚ではなく、昼間はヘリが何度も上空を通っていった。そのたびに大声で叫んだ。ヘリは上空のかなり高いところを飛んでいた。それでもヘリが見えている間は、とにかく大声でずっと叫び続けた。
えずきはなおも続いていた。「おえっ」となったときに胸に力が入るので、ずっと胸が痛かった。空腹感はまったくなかったが、喉の渇きがひどかった。それまではなんとか耐えていたが、いよいよ限界に達していた。この日、吐いた胃液と小便を、初めて飲んだ。アリも食べた。アリをぷちっと噛んだときに出てくるわずかな体液でさえ貴重だった。
夕方になって、再び幻覚を見た。薄暗いなか、シャクナゲが茂っている林道で、うずくまった女性が赤ちゃんを抱いていた。 一瞬、「あれ、登山者かな。自分と同じように道に迷っているのかな」と思ったが、久しぶりに人に出会えたことが嬉しかった。今後の同行者が現われたことで、心強くも感じた。こんな山奥に赤ちゃんを抱いた女性がいるはずもないのに、それが不自然だとはまったく思わなかった。
自分の存在に気づいていないのか、女性は微動だにしなかったので、「すみません」と声を掛けた。すると彼女はすっと立ち上がり、赤ちゃんを抱いたまま反対方向に走り出していって、姿が見えなくなってしまった。それでも幻覚だとは思わなかった。「あれ、どうしたんだろう」と不思議に思っただけだった。
日が暮れたのち、林道の脇に体を横たえ、目を閉じた。ふと気がつくと、どこからともなく「ざっ」「ざっ」という足音が聞こえてきた。目を開いても真っ暗でなにも見えない。「幻聴だろう」と思ったが、とにかく怖かった。それでもいつの間にか眠りに落ちていた。遭難して以来、いちばん眠れた夜だった。
遭難して6日目となる15日は、いちばん辛かった日だからよく覚えている。
それまでは朝5時半ごろから動きはじめていたが、この日は7時半ごろまで動けなかった。
目は覚めていたが、体を動かせなかった。
なんとか行動を開始して林道を歩きはじめたが、間もなく崩壊箇所に行き当たり、迂回するために斜面を登っていった。そのまま登り続け、いったんは国見岳から五勇山へ続く稜線上に出たようである。
「たぶん稜線まで上がっているんです。そこには登山道があるはずなんですが、『どうせ幻覚だろう』と思ってしまいました。もうそのころには、標識やガードレールなんかが見えても、すべて幻覚だろうと思い込むようになっていました」