文春オンライン
左足の傷に「ハエのような虫がびっしり…」崖から滑落→遭難した30代男性が山中をさまよった“恐ろしい6日間”

左足の傷に「ハエのような虫がびっしり…」崖から滑落→遭難した30代男性が山中をさまよった“恐ろしい6日間”

『ドキュメント生還2 長期遭難からの脱出』より#2

2024/05/25

genre : ニュース, 社会

note

幻聴、幻覚…「私はもう助からないんだ」

 再び斜面を下っていく途中の昼ごろ、土砂降りの雨に見舞われた。急いで林道まで下り、なるべく雨に濡れないように、林道の傍らの瓦礫の下に身を潜めた。雨は夜中まで降り続け、結局、この日はそこから一歩も動かなかった。時間だけがゆるゆると過ぎていくなかで、「南無妙法蓮華経」というお経を唱える声や鐘の音がずっと聞こえていた。

 幻聴を聞きながら考えていたのは、「明日はどうやって死のうか」ということだった。横田が言う。

「とにかくキツかった。頭がおかしくなりそうでした」

ADVERTISEMENT

 死ぬ前に、妻と小学生の娘、生まれたばかりの息子に遺書を書いておきたいと思ったが、紙とペンがなかった。仕方なく、石をペン代わりにして、そばにあった大きな石に削りつけた。

 子供たちには「ごめんね」と、妻には「再婚してください」などなど、思いつくことをつらつらと書き連ねた。書いたところで、誰にも見つけてもらえないであろうことはわかっていたが、

 “念”として残しておきたかった。

 夕方になって、また幻覚を見た。ちょっと離れた林道脇の木で、人が首を吊っていた。それを見て、「あ、私はもう助からないんだな」と思った。

 そこは、これまでビバークしてきたなかでいちばん開けた場所だったので、空がよく見えていた。雨は降っていたが小雨となっていて、朧おぼろ月のような月が滲んで浮かんでいた。

 その月明かりに照らされて、緩やかにカーブを描いている林道に、びっしりと人が並んでいるのが見えた。雨が降っているのに、誰も傘はさしていなかった。

 人々はゆっくりと歩みながら、横田の1メートルほど目の前を通り過ぎていった。ひとりひとりはぼんやりとしか見えないのだが、そのシルエットで男性か女性か、年寄りなのか若者なのかがわかった。通り過ぎる際に、誰もが無言で横田を一瞥した。彼らは、自分を見るためだけに、長い列を成していた。それを見ても、もはや驚く元気もなかった。

 人々が代わる代わる自分を見て通り過ぎていくなかで、ひとりだけ「おい」と声をかけてきた男がいた。

「お盆だから、誰も迎えにはこないぞ」

 と彼は言った。それを聞いて、「あ、そうか。今はお盆か」と思った。

 いつの間にか眠りに落ち、うとうとしては起きることを何度か繰り返したが、目が覚めるとまだ人の列があった。列は明け方近くまで続いた。

ドキュメント生還2 長期遭難からの脱出

ドキュメント生還2 長期遭難からの脱出

羽根田 治

山と渓谷社

2024年5月17日 発売

左足の傷に「ハエのような虫がびっしり…」崖から滑落→遭難した30代男性が山中をさまよった“恐ろしい6日間”

X(旧Twitter)をフォローして最新記事をいち早く読もう

文春オンラインをフォロー