幻聴、幻覚…「私はもう助からないんだ」
再び斜面を下っていく途中の昼ごろ、土砂降りの雨に見舞われた。急いで林道まで下り、なるべく雨に濡れないように、林道の傍らの瓦礫の下に身を潜めた。雨は夜中まで降り続け、結局、この日はそこから一歩も動かなかった。時間だけがゆるゆると過ぎていくなかで、「南無妙法蓮華経」というお経を唱える声や鐘の音がずっと聞こえていた。
幻聴を聞きながら考えていたのは、「明日はどうやって死のうか」ということだった。横田が言う。
「とにかくキツかった。頭がおかしくなりそうでした」
死ぬ前に、妻と小学生の娘、生まれたばかりの息子に遺書を書いておきたいと思ったが、紙とペンがなかった。仕方なく、石をペン代わりにして、そばにあった大きな石に削りつけた。
子供たちには「ごめんね」と、妻には「再婚してください」などなど、思いつくことをつらつらと書き連ねた。書いたところで、誰にも見つけてもらえないであろうことはわかっていたが、
“念”として残しておきたかった。
夕方になって、また幻覚を見た。ちょっと離れた林道脇の木で、人が首を吊っていた。それを見て、「あ、私はもう助からないんだな」と思った。
そこは、これまでビバークしてきたなかでいちばん開けた場所だったので、空がよく見えていた。雨は降っていたが小雨となっていて、朧おぼろ月のような月が滲んで浮かんでいた。
その月明かりに照らされて、緩やかにカーブを描いている林道に、びっしりと人が並んでいるのが見えた。雨が降っているのに、誰も傘はさしていなかった。
人々はゆっくりと歩みながら、横田の1メートルほど目の前を通り過ぎていった。ひとりひとりはぼんやりとしか見えないのだが、そのシルエットで男性か女性か、年寄りなのか若者なのかがわかった。通り過ぎる際に、誰もが無言で横田を一瞥した。彼らは、自分を見るためだけに、長い列を成していた。それを見ても、もはや驚く元気もなかった。
人々が代わる代わる自分を見て通り過ぎていくなかで、ひとりだけ「おい」と声をかけてきた男がいた。
「お盆だから、誰も迎えにはこないぞ」
と彼は言った。それを聞いて、「あ、そうか。今はお盆か」と思った。
いつの間にか眠りに落ち、うとうとしては起きることを何度か繰り返したが、目が覚めるとまだ人の列があった。列は明け方近くまで続いた。