1ページ目から読む
2/3ページ目

伸ばした髪の毛先をあえて傷ませ…執念の母になる

 石原が演じたのは1児の母・沙織里。地方都市に暮らしている沙織里は、ある日突然、最愛の娘が行方不明になるという筆舌に尽くせない体験をする。あらゆる手を尽くし探したが見つからないまま3ヶ月が経過。最初のうちは事件に注目したマスコミが取材してテレビ番組に取り上げていたが、時間が経つにつれて少しずつ世間の関心は薄れていく。

 必死で自分を保とうとしても、焦燥感や不安や不信感など負の感情に苛まれていくばかり。夫・豊(青木崇高)は彼なりに考えて動いてはいるとはいえ、期待どおりの言動をしてくれず、沙織里の苛立ちは募る。

映画『ミッシング』予告映像より

 やがて、沙織里が娘の失踪時、推しのライブに出かけていたことが公になる。ネットで沙織里へのバッシングがはじまり直接的なひどい嫌がらせも行われる。

ADVERTISEMENT

 ネットやマスコミにとってはしょせん他人事、簡単に消費し、手のひらを返すという世の理を痛いほど味わいながら2年が経過。沙織里はひたすら娘を探し続ける。

『ミッシング』で執念の母を演じたことで石原は「自分をさらけ出す」ことを学んだそうだ。撮影に臨むにあたり、伸ばした髪の毛先をあえて傷ませることで、美容に構っている余裕のない状況を作りだした。衣装も飾り気のないもので、それこそ晴れやかな笑顔はなく、つねに悩ましい顔つきをしている。

 序盤は石原特有の恐れを知らないように見える調子で、マスコミや警察に娘を探してほしいと体当たりを続ける。それがことごとく期待を裏切られ、絶望の底に叩きのめされたとき、とうとう凛とした鎧が砕け散り、全身から悲しみが溢れ出る。耐え難い苦しみを、こんなふうに表すのかと目を見張った。

 これで石原さとみは映画賞を獲るのでは。そんなことも思う。だが、石原さとみの真骨頂は、全身で激しい懊悩を表現したあとに待っていた。映画の終盤、ボロボロになりすっかりすり減ってしまったように見える沙織里が何を選択するかーーこれは吉田恵輔監督の脚本の力もあるのだが、石原は見事に体言している。

©文藝春秋

 デビュー以来、キラキラと輝いてきた彼女が、とことんさらけ出し、人間の弱さを包み隠さず露呈させたときに、石原さとみの身体から発されるもの、それこそがパンドラの箱に残った希望であるべきだというような思いになる。詳しくは映画を見てほしいが、周囲の人間の悪意と対峙していたら、他者との関わりを遮断し、とことん自分本意になってしまう危険性もありそうなところ、沙織里が選択したことは人間にとってとても大事なことだと思う、そんな映画だった。