当時活躍していたのは小池栄子さんやMEGUMIさんと爆乳時代。私は巨乳でもないし、どちらかと言うとモデルになりたかった。でもモデルというほど背も高くないし、細いわけでもないし。周りにもいろんなアイドルの方がいて、高校生ながらに「私はこの美の価値観だけで生きていくのは難しいな」と思って。
じゃあ逆にこの子たちになくて、私が得意なものはなんだろうと考えたら、お茶大附属の中では普通だけど、世間的に見たら勉強は得意な方だと思って。そこで勉強を頑張ろうと思って高2で芸能活動を辞めたんです。
母が慶應義塾出身だったので、慶應に入れば誰も文句言わないだろうと思って、AO入試で入りました。AO入試の時は音楽や英語、あと自分のオタクな部分などいろんなことを活かして、将来は映画や映像制作をやりたい、北野武監督みたいになりたいと言ってました。
アナウンサーになろうと思ったきっかけは
――脊山さん、本当にアート、サブカル寄りの方だったんですね。
脊山 大学時代はさらにそちら側に行っていました。蜷川実花さんが連載されていた富士フイルムのウェブマガジン「マカロニアンモナイト」で仕事をしていたカメラマンさんに声をかけられて、写真モデルを始めたんです。中川翔子さんも当時モデルをやっていました。
そのウェブマガジンでフォトエッセイの連載も持っていて、私はカメラマンになろう、と思ったんです。写真を撮りに行こうと思って、大学の授業で建築デザインの勉強を始めました。そこで出会ったのが世界的な建築家の坂茂さんです。坂さんは私の写真をめちゃくちゃ気に入ってくれて。いまだに「君はまだ写真家にならないのか」と連絡してくれます。
――脊山さんのお話、登場する人の名前がすごいですね。映画、写真、建築と完全にアート寄りの人間である脊山さんがなぜテレビ局、しかも制作側ではなくアナウンサーになろうと思ったんですか。
脊山 子どもの頃から芸術的な仕事がしたいという思いもあったんですが、親を安心させるためにもテレビ局は大手企業だし、いいんじゃないかなと思ったんです。
でも制作に入るのは難しいと思ったんです。制作はビジュアルは関係なく、全員の中から面白い人No.1にならないといけないじゃないですか。でもアナウンサーってビジュアルを大事にしている子たちの中で面白い人No.1となればいいので、そっちの方が楽かなと思ったんです。普通の人と逆だと思うんですけど。