『馬の惑星』(星野博美 著)集英社

 漁師だった先祖のルーツやキリスト教弾圧と殉教者の歴史など、時間と場所を越え、独自の視点でテーマを追ってきた星野博美さん。今回のテーマとなった「馬」との出会いは2010年、長崎県五島列島だった。

「合宿免許に行った自動車学校に、馬がいたんです。運転が上達せず傷ついた心を、馬が癒やしてくれました。人間を乗せてくれる動物ってそんなにいませんよね。自分より大きいのにこんなに可愛いし、馬に乗っていると下半身が馬体にくっつくのでとても温かく、その温もりにも驚きました」

 こうして馬に魅了された著者が馬に誘われて旅をし、その土地の歴史を辿ったのが『馬の惑星』だ。16年、まず向かったのは遊牧文化が息づくモンゴル。ナーダム祭で、騎馬軍団の迫力と、30kmを走る競馬の過酷さを目の当たりにした。

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「乗馬は上流階級の嗜みというイメージがあったので、そうではないところで馬を見てみたかったんです」

 名馬の産地・スペイン南部のアンダルシアでは、かつてキリスト教国がイスラーム勢力から国土を取り戻そうとしたレコンキスタ(国土再征服運動)の影に触れ、馬の歴史の背景に異端審問の熱狂を見る。

「馬は戦闘に必要なものでしたから、馬事文化が盛んな土地は戦闘の多かった土地であることが多い。そういう場所は文明の境界にもなるわけで、中心地から追放された人々が暮らし、独自の文化も生まれます。かつてそこに違う民族が暮らし、別の宗教が根付いていたという複雑さは、島国の日本で暮らしているとなかなか想像しづらい。馬が、現在の地図からは想像できない時空間へ連れて行ってくれました」

 トルコのカッパドキアでは在来馬に乗り、雪の山道を歩いた。

「一歩間違えば谷底に落ちて死んでしまう細い道を歩いて峠を越え、見晴らしのいい場所に出た瞬間、ちょっとした征服感がありました。馬に乗っていると、行けるとこまで行ってみたいという欲望が出てくる。この感覚は、歩いて登っては味わえなかったと思います」

星野博美さん

 22年には遊牧民の伝統的競技を競うノマド・ゲームズを観戦するため再びトルコへ。そこには、オリンピックの馬術競技が西欧勢中心となっていることへの違和感もあった。馬同士が激突する「馬上ラグビー」ことコクボルは圧巻だ。

 訪れた先々で複雑な歴史の一端に触れ、営まれてきた人々の暮らしに思いを馳せる。だが、当初からここまで想定していたわけではなかったという。

「最初はただただ、自分の関心と交差する場所で馬に乗りたいと思っていただけでした。私の場合、旅の目的を決めてから行くとそれしか見えなくなるので、なるべく余白を残した状態で旅に行きたいんです」

 馬に導かれる旅だったが、出会う人々も印象的だ。モロッコのテトゥアンには、かつてレコンキスタでイベリア半島を追われたイスラーム教徒やユダヤ人が暮らしていた。いくつもの扉の先に隠すようにされていたシナゴーグに招き入れてくれた男性は、その街にユダヤ人は10人しか残っていないと教えてくれた。

「旅というのは不思議ですね。私は旅先では人に会うのが目的ではなく、その場所で何かを考えたいのですが、そうして訪れると、そこには必ず水先案内人になってくれる人がいるんです。ただ、誰に声をかけるかは1時間くらいじっと観察します。見交わして一瞬のコミュニケーションをとる動物的な勘は、昔、スナップを撮っていた時に培われたものかもしれませんね」

ほしのひろみ/1966年東京生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』で大宅壮一ノンフィクション賞、『コンニャク屋漂流記』で読売文学賞(随筆・紀行賞)、『世界は五反田から始まった』で大佛次郎賞受賞。