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「そして今度、この噺を(高座に)かけますので勉強させてください」と断って落語をするようになった。

 これ、なかなかできないことだ。地域寄席には、主催する噺家の熱烈なファンが多い。今は地域寄席も高齢化が進んでいるが、当時は「速記本」を手にした落研(落語研究会)らしき大学生や、眼光鋭い社会人など「俺たちはお笑いじゃなくて、落語を聞きに来ているんだ」みたいなお客が多かった。

 テレビの人気者など「ケッ」みたいな空気もあったはずだが、ざこばは臆することなく落語を演じた。

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 ざこばは、笑いが多い「得な噺」だけでなく、師匠米朝譲りの希少な噺も演じた。筆者がよく覚えているのは「狸の化け寺」という古い噺だ。笑いがそれほど多くない、難しい噺だったが、いろいろな地域寄席で演じているうちに、少しずつ噺の勘所を押さえるようになった。

 ざこばが1つの噺をものにするまでを目の当たりにしたことは、とても幸運だった。

高座に上がるなり男泣き、客席ももらい泣き

 昭和50年代のこの時期、ざこばにとって「甥弟子(兄弟子月亭可朝の弟子)」にあたる月亭八方も、地域寄席で落語を演じるのをよく見かけた。

 共にテレビの人気者だったが、落語に対して真摯に向き合っていたという印象だ。

©時事通信社

 ざこばの精進の甲斐あって、1981年3月13日、大阪のサンケイホールで「第1回桂朝丸独演会」が開催されることになった。

 落語家が寄席以外の会場で大規模な落語会=「ホール落語」を定期的に開催した嚆矢はざこばの師匠の三代目桂米朝だと言われる。1971年7月からサンケイホールで始めた「桂米朝独演会」が大人気となったのだ。続いて1976年、ざこばの兄弟子の二代目桂枝雀もサンケイホールで「桂枝雀独演会」を始める。

 サンケイホールは米朝一門にとって「檜舞台」と言える大舞台だった。

 演目は「子ほめ」「不動坊」「首提灯」。ざこば(当時朝丸)は、満を持してこの日を迎えた。

 師匠の桂米朝は当日のパンフレットに、こんな一文を寄せた。

 朝丸と南海電車に乗っていて、難波に近づき車窓から大阪球場の灯りがちらっと見えると、

 朝丸は「今日は暑かったから、ビールがよく売れるやろうと思います」

 と言った。

 朝丸は、家庭の事情で中学からアルバイトをしていた。こんなあどけない子どもが、重たいビールを担いで、急な段差のある球場を上り下りしていたかと思うと、胸が詰まるような思いがした。

 その朝丸が、今日、初の独演会を開く。褒めてやってほしいと思う。

 ざこばは、高座に上がるなり「パンフレットの文章、よんでくれはりましたか」と客席に言い「嬉しい」といって男泣きに泣き始めた。客席ももらい泣きをし、それから大きな拍手が起こった。

 1947(昭和22)年生まれのざこばが大阪球場でアルバイトをしていたのは、昭和30年代半ば。南海ホークスの全盛期だ。杉浦忠、野村克也、広瀬叔功らが活躍していたはずだが、ざこばはグラウンドに目をやる余裕もなく懸命にビールを売り歩いていたのだろう。

 そんな境遇から必死に這い上がって、テレビの人気者、そして落語界の大師匠へと昇って行ったのだ。

 師匠の桂米朝は、そんなざこばのひたむきな努力を、じっと見つめていたのだ。

 このエピソードには、二代目桂ざこばという芸人の人柄、そして師匠米朝の懐の深さが、現れている。

 筆者は今、野球のライターをしているが、球場でビールを売る売り子を見るたびに、ざこばと米朝のことを思い出す。そして「心して飲みたい」と思いながら声をかける次第である。